キラレ×キラレ 森 博嗣 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)遇《ぐう》する |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)高潔|敬虔《けいけん》なる [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)ある[#「ある」に丸傍点] ------------------------------------------------------- 〈帯〉  満員電車に出没する切り裂き魔の正体は!?  被害者にはある[#「ある」に丸傍点]共通点が……!! [#改ページ] 〈カバー〉  冴えわたる森ミステリィ  どうにか、そうならず、  誰も殺さず、  自分も生きていられるのは、  何故だろうか? 「この頃、話題になっている、電車の切り裂き魔なんだけれど——」三十代の女性が満員の車内で、ナイフのようなもので襲われる事件が連続する。〈探偵〉鷹知祐一朗と小川令子は被害者が同じクリニックに通っている事実をつきとめるが、その矢先、新たな切り裂き魔事件が発生し、さらには殺人事件へと——。犯行の異常な動機が浮かび上がるとき、明らかになるものとは……。Xシリーズ第二弾!!  きられきられ  きれいにきられ  ながれながれて  まっかっか  きえてきえて  しずかにきえて  だれにもみえない  やみのなか  しずめしずめ  どんどんしずめ  やみのそこまで  まっかっか [#改ページ]  キラレ×キラレ [#地から1字上げ]森 博嗣 [#地から1字上げ]講談社ノベルス [#地から1字上げ]KODANSHA NOVELS [#改ページ]  目次  プロローグ  第1章 不愉快な繰り返し  第2章 不連続な繰り返し  第3章 不条理な繰り返し  第4章 不用意な繰り返し  第5章 不思議な繰り返し  エピローグ [#改ページ] [#中央揃え]Cutthroat [#中央揃え]by [#中央揃え]MORI Hiroshi [#中央揃え]2007 [#改ページ] 登場人物  川戸《かわど》 道久《みちひさ》…………会社役員  岸本《きしもと》 真由《まゆ》…………第三の被害者  徳山《とくやま》 喜美子《きみこ》………最初の被害者  前畑《まえはた》 昌子《しょうこ》…………第二の被害者  阿部《あべ》 雪枝《ゆきえ》…………第四の被害者  阿部《あべ》 茂晴《しげはる》…………自衛官  阿部《あべ》 和輝《かずき》…………中学生  佐久間《さくま》 護《まもる》…………医師  佐久間《さくま》 香《かおる》…………その妻  中野《なかの》 孝司《こうじ》…………薬剤師  小森《こもり》 志津恵《しずえ》………中野の妹  鷹知《たかち》 祐一朗《ゆういちろう》………探偵  椙田《すぎた》 泰男《やすお》…………美術品鑑定業  真鍋《まなべ》 瞬市《しゅんいち》…………芸大生  小川《おがわ》 令子《れいこ》…………助手  鈴木《すずき》………………刑事  竹橋《たけばし》………………刑事 [#改ページ]  あの晩こそ運命の十字路にわたしは立っていたのであった。もしわたしがわたしの発見を遇《ぐう》するにより崇高《すうこう》なる精神をもってし、高潔|敬虔《けいけん》なる向上心に動かされてあの実験をとり行なったのならば、すべてはまったく異なる結果をもたらしたであろうし、ああした生死の苦しみのなかからわたしは悪鬼《あっき》としてではなく、天使としてあらわれ出たことであろう。 [#地付き](The Strange Case of Dr.Jekyll and Mr.Hyde / Robert Louis Stevenson) [#改ページ] プロローグ [#ここから5字下げ] 「女か、地獄《じごく》に堕《お》ちた亡者《もうじゃ》みたいに、泣いていましたんで、はい」と召使頭《めしつかいがしら》は言うのだ。「それが、旦那さま、胸にしみて、戻《もど》ってくるなりわたくしも泣きたくなったくらいでございましたよ」 [#ここで字下げ終わり]  鷹知祐一朗《たかちゆういちろう》が毎朝九時前後の時間帯にその喫茶店にいる、ということを知って以来、小川令子《おがわれいこ》はもう三度、その店へその時刻に足を運んだ。ある意味で、不可思議な行動ではある。また別の意味では、興味深い行動である。自分としての一応の解釈は、自宅から勤務先の途中にその店が位置すること、すなわち通りかかった、というものであり、いかにも説得力がないわけだが、それでも彼女自身は納得しようと努力していた。  ちなみに、勤務先というのは、SYアート&リサーチという事務所で、椙田泰男《すぎたやすお》という男がボスだ。そして、小川は彼のアシスタント兼秘書である。まだ、そこに就職して間もない。給料を一度もらっただけだった。その給料もけっして高くはない。特に、そのまえの仕事で彼女が受け取っていた額に比べたら、半分に近い。それでも、現在の彼女の生活を維持するには充分だったし、平均すれば非常に楽な職場なので、大きな不満はない。認めたくないが、もう中年の仲間入りをしつつある年齢なので、肉体的に楽な条件は欠かせない、と考えていた。そんな贅沢《ぜいたく》ができるなんて非常にありがたい、とも思っている。  時刻は午前九時。この喫茶店と鷹知のことを教えてくれたのは、真鍋瞬市《まなべしゅんいち》だった。彼女の職場にいる若者である。バイトのようなものだが、正確にはバイトではない。その真鍋が、この店で鷹知とばったり会ったという。それを聞いたので、過去二回ここへ来たわけだが、いずれのときも、一人でテーブルに着き、コーヒーを一杯飲んで三十分ほどで引き上げた。何のために自分は鷹知に会おうとしているのか、その具体的な理由はよくわからなかった。用事はない。用事があっても、電話をかければ済むことである。なんとなく、偶然に彼と会う、ということに仄《ほの》かな価値があるような気がする。福袋を買うときのような期待感ではないだろうか、とぼんやりと想像した。  しかし今日は、そういった淡い夢の続きではなかった。昨夜、当の鷹知から電話がかかってきたのである。それで、この場所で会う約束をした。朝の九時なので、たぶん彼にとっても日頃の生活リズムの範囲内だったのだろう。小川の場合、事務所に出勤する時間は特に決まっていない。だいたい、十時過ぎのことが多く、この時刻ならばなんの支障もない。もしかして、過去二回、彼女がここへ来ていることを鷹知は知っているのではないか、と勘繰《かんぐ》ったりもした。もしそうだったら、と考えるだけで顔が熱くなってしまう。  何の話だろうか。久しぶりだ、会うのは。鷹知の方は、ただなんとなく会いたい、というような感じでは全然なかった。まちがいなく仕事の話だろう。なんとなく会う、というのだったら素敵《すてき》だが、それにしては時間帯に多少違和感がある。ただ、鷹知という男は、多少変わったところのある人物なので、その可能性がないわけでもない。そこがロスタイムのように僅《わず》かに期待が持てる部分ではある。などと、いろいろ妄想しながら歩いているうちに、あっという間に店に到着してしまった。約束の時刻の十分まえだった。  入口から店内は一望できる。まだ彼はいないようだ。とりあえず、窓際《まどぎわ》のテーブルに座り、水を運んできた年輩の男に、ホットコーヒーを注文した。そのコーヒーがテーブルに運ばれてきたときも、まだ五分まえだった。  外の風景を眺めながら、小川はコーヒーを啜《すす》る。すると、見慣れた顔がこちらへ近づいてくるのがガラス越しに見えた。向こうも気づいてにっこりと笑った。小川は驚いたものの、片手を広げて応《こた》える。  真鍋瞬市である。店に入ってきて、真っ直ぐに小川のテーブルへやってきた。 「おはようございます」対面のシートに腰掛けて真鍋は、いきなり欠伸《あくび》をした。「あぁあ、眠いですよね。たまりませんね」 「君も呼び出されたわけ?」 「あ、ええ……」 「なんだ、そうだったの」躰の中の空気が半分くらい抜けて、精神的圧力が低下する小川である。  店員がやってきたので、真鍋もコーヒーを注文した。 「何の話かなぁ」コーヒーに口をつけ、外を眺めながら、彼女は呟《つぶや》いた。鷹知の姿はまだない。 「あれですよ、きっと、ほら、電車の切り裂き魔」 「え?」彼女は驚いて、真鍋に視線を戻す。「それ、本当?」 「なんか、たしか、そんなふうなこと、鷹知さん、言ってましたよ」 「私には言わなかったわよ」 「僕には言いました」  小学生か、と思ったものの、そんな自慢げに言われると、三つ入りの枝豆に二つしか入っていなかったときくらい、ほんの少し腹が立つ。 「電車の切り裂き魔って?」 「あれ? 知らないんですか。テレビでじゃんじゃんやってますよ。もう、この二、三週間」 「うん、この頃ね、あまりテレビ見ないから。新聞も、取るのやめちゃったし」 「今までに三回もあったんですよ。満員電車でナイフで切られるっていう事件が。被害者は、みんな若くない女性です」 「若くない女性?」 「そうです。若くない女性」 「なんか、ひっかかる表現ね」 「でも、若い女性っていうのだったら、普通じゃないですか」 「何が言いたいの? テレビでそう言っていたわけ?」 「いえ、テレビでは三十代の女性、と言ってますね」 「だったら、若い女性で良くない?」 「僕は、良くないと思います」 「真面目に応えないでほしいな、そういうの」小川は息を漏らした。苦笑した、というふうに受け取ってもらえれば、それは楽観的分析である。  真鍋の説明によると、首都圏のJRや私鉄で、ラッシュ時に発生している事件らしい。三十代の女性が満員の車内で、ナイフのようなもので襲われたが、いずれも軽傷。衣服が切られ、その場で大騒ぎになるものの、犯人はまだ捕まっていないという。確認されている同種の事件が三回で、最初のものは朝、あとの二回は夕刻である。発生した路線はいずれも異なるものの、手口がほぼ同じであることから、同一犯との見方が有力だ、と真鍋は説明した。 「まあ、満員電車っていうのは、それくらいのことがあっても不思議ではありませんけどね」真鍋は言った。 「卑劣だと思うな、そういうのって」 「基本的に、あんな狭い密室空間に大勢が寿司詰めになっているっていうのが、おかしいと思うんです」 「うん、でも、そういう問題じゃないでしょう?」小川は言う。  コーヒーがもう一つ運ばれてきた。彼女は時計を確認する。ジャスト九時。窓の外を見ても、見える範囲には鷹知の姿はまだなかった。 「満員電車なんか、恐くて乗れませんよ。いつ痴漢の濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられるかわかりませんからね」 「ああ、そういうもの? 男性の場合」 「だって、ぎゅうぎゅう詰めなんですよ。身動き一つできないことって、あるじゃないですか。隣が女の人だと困りますよう。ひやひやもんですよ、もう」 「ふうん」 「あれで、人を陥《おとしい》れることができると思うんです。誰かを抹殺したいと思ったら、そいつの近くへプロの必殺痴漢被害者を送り込むわけですよ」 「必殺痴漢被害者? ああ……、なるほど」小川にもその意味がわかった。「言わんとすることはわかった、うん。そうね、できるだけ、そういう危ない場所は避けるべきかもね。李下《りか》に冠を正さずって言うでしょう?」 「理科に冠を?」 「正さず」 「何ですか、それ」 「私、まだひっかかっているんだけれど、どうして、三十代の女性なのかしら」 「え?」 「素直に考えて、十代や二十代の女性の方が、狙われやすいんじゃないかと思うわけ」 「いや……、どうしてでしょう」真鍋は目を丸くした。「僕にきかれても……」 「若い女の子の方が、そういうとき、びっくりしちゃって騒がないって考えない?」 「ああ、三十代ともなると、きもが据わっているから、腹の底から声を出したりできるんですね」 「そこまで言ってない」小川は目を細めた。「でも、狙うなら、普通は若い子じゃない? 被害者としても、実際多いと思う」 「まあ、それは、なんというのか、人それぞれの、好みの問題じゃないでしょうか」 「うん、まあね。それ以外に思いつかない。そう……、恐いわねぇ……、私も経験があるけれど」 「え、痴漢のですか? あるんですか?」 「そりゃあ、あるわよ」 「いつです? 三十代になってからもですか?」 「具体的に追及しないでほしいな」 「あ、はい、すいません」 「あ、来た来た」道路をこちらへ走って渡ってくる鷹知祐一朗が見えた。  鷹知はスーツにネクタイというファッションだった。店に入ってくると、小川たちの顔を見つけて微笑む。途中で、カウンタの中のマスタになにか一言告げてから、近づいてきた。 「おはよう」鷹知は、真鍋の隣に座った。「悪いね、朝から」 「お久しぶり」小川は口を意識した形にした。この形が一番、好印象だろう、という対人モードの一つである。  鷹知のコーヒーが来るまで、軽く世間話。電話やメールのやり取りは幾度かあったが、顔を見るのは約一ヵ月ぶりのことだ。  コーヒーが来て、鷹知はそれに口をつける。それから、ようやく本題の話を始めた。 「実は、ちょっと協力してもらいたいことがあるんだ。バイトだと思ってもらっても良い。もちろん、椙田さんの許可を得ないといけないけれど……」彼は煙草に火をつけた。 「バイトなら、僕は是非」真鍋が言った。「今、金欠だから」 「いつもじゃない」小川は小声で指摘する。 「この頃、話題になっている、電車の切り裂き魔なんだけれど、その三回めのときに、警察に捕まった男がいる。その人、ある大企業の重役さんで、僕の知り合いなんだ。まあ、といっても、以前にちょっとした仕事の関係で会った、というくらいで、親しいわけじゃない。五十代の立派な紳士だ。普段は電車なんかあまり乗らないそうだが、その日はたまたま乗ってしまった。満員だったからびっくりしたそうだ。こんなのもう二度と乗るものか、と思った矢先のことだったって言っていた。駅に到着してドアが開いて、降りようとしたとき、近くの女性が悲鳴を上げた、ということらしい」 「痴漢騒ぎになったの?」小川はきいた。 「そう。どうしたのだろう、と立ち止まってたら、この人だと誰かが言って、犯人だと疑われて大勢に取り囲まれた。駅員と一緒に部屋へ連れていかれて、そのうち警察もやってきたそうだ。とにかく身に覚えがない、と主張しても、疑いはなかなか晴れなかったそうだ」 「被害者は、どんなふうだったの?」 「ナイフで背中を切られた。すぐに病院へ運ばれた。傷のわりにかなり酷《ひど》い出血だったようだ。シャツは血だらけだったそうだよ」 「え、そんなに酷かったんですか」真鍋も驚いた顔である。 「ナイフを持った人、見つからなかったの?」小川はきいた。「そんなの、周りにいる人間を全部調べたら、簡単にわかりそうなものなのに」 「なかなか、そうもいかないんだろうね。たぶん、ドアが開く間際《まぎわ》にやったんだと思う。そのあと、人が入り乱れて、外へ流れ出る。それに紛《まぎ》れて逃げてしまう、というわけだね」 「どうして、その人が疑われたんですか?」真鍋が尋ねた。 「乗客の一人が、この人だって、彼を指さしたらしい」鷹知は答えた。「目撃者がいた、というわけだ。ただでも、その目撃者というのは、そのままどこかへ行ってしまった。証拠もなにもない。被害者の女性のどのくらい近くにいたのかも、わからなかったそうだ」 「鷹知さんが、その事件を調べているんですか? どうして、また……」小川は不思議に思ったことをきいてみた。 「つまり、その人から依頼されたからだよ」 「その人って……、その、疑われたという男性?」 「そう、知り合いだったから、僕に依頼が来た」 「どういう依頼です?」小川はきいた。 「うん、よほど腹が立ったんだろうね。こうなったら、自分でその犯人を見つけてやろう、と考えたらしい。警察なんかを当てにしていたら、いつまで経っても解決しない、と感じたんじゃないかな」 「へえ、それはまた見上げた根性ですね」真鍋が言った。 「君ね、それ、日本語が貧しいよ」小川は指摘する。 「え、そうですか?」 「まあ、そんなわけで、この調査で、ちょっと君たちの力を借りたい、というお願いなんだけれど」 「あ、わかった。小川さんが囮《おとり》になるんですね?」真鍋が言った。 「ちょっとちょっとちょっと」彼女は手を広げて前に出す。「冗談でも、そういうこと言わないの」 「え、違うんですか?」真鍋は横の鷹知の顔を見た。 「うん、さすがに、そこまでは思いつかなかった」鷹知は腕組みをして眉を顰《ひそ》めた。「囮かあ……」 「思いつかないのが普通だと思う。考えないで、そんなこと」伸ばした片手を鷹知の方へ移動して振った。「あの、協力って、どんなことをすれば良いんです?」 「囮は、いくらなんでも、危険だよなあ」鷹知は思い詰めた表情で言った。 「本気なんですか?」少々あっけにとられて、小川はシートの背にもたれかかる。 「いや、そういうわけじゃない。具体的な案は全然ないんだ。ただ、関係者の話をきくにしても、あるいは、現場を見張るにしても、人数が必要だと思ってね」鷹知はそれから、じっと小川を見つめた。「もう一つ理由がある。実は、その依頼人が小川さんのことを知っているんだ」 「え? 誰ですか?」 「川戸道久《かわどみちひさ》さん」鷹知は答える。 「川戸さん……」彼女はすぐには思いつかなかった。しかし、頭の中のリストから三秒後にそのデータを引き出した。「ああ、あの、D建設の?」 「そう」 「あららら、それは大変」小川は溜息《ためいき》をついた。「けっこう、お世話になったかもしれない」 「このまえの佐竹《さたけ》家の事件の話になってね。小川さん、テレビに出たから、それを川戸さんが見ていたんだよ。その話になったものだから、つい、知り合いだって話してしまったけど。いけなかった?」 「いえ、べつに、かまいませんけれど。川戸さんといえば、次期か、遅くともその次には、D建設の社長ですよ」 「うん、そう。だから、今回のこと、もしかして、そちら方面の抵抗勢力が仕組んだ陰謀じゃないかって疑ったそうだよ」 「ああ、ありえない話じゃないですね」小川は頷《うなず》き、真鍋の顔を見た。ついさきほど、真鍋が話していたことに近い。  真鍋もうんうんと頷いた。ほら、言ったとおりでしょう? といった顔である。 「とりあえず、椙田さんにきいてみてもらえないかな。必要ならば、僕が行ってちゃんと説明をするけれど」 「ええ、わかりました」小川は返事をする。「たぶん、問題はないと思います」彼女は真鍋の方を見てきいた。「ね? 仕事ないものね、今」 「出稼ぎっていうんじゃないですか? こういうの」真鍋が言う。 「ううん、言わない」彼女は首をふった。「言うとしたら、出向かな」 「シュッコウ?」首を傾《かし》げる真鍋である。 「あるいは、派遣ね」 「派遣かぁ、あ、そっちの方が格好良いですね、僕的には」 [#改ページ] 第1章 不愉快な繰り返し [#ここから5字下げ] かくしてわたしは知性の両面たる道徳的、ならびに主知的見地から、日一日とかの真理、すなわち、人間は実は単一の存在ではなくして二元的な存在であるという真理に、着々と近づきつつあった。 [#ここで字下げ終わり]      1  小川と真鍋は、十時過ぎに事務所に到着した。鍵を開けたのは小川である。駅で買ってきた新聞を交換しながら二人でしばらく読んだ。電話がかかってきたので、彼女は壁の時計を見てから、受話器を取った。十一時である。思ったとおり、電話は椙田からだった。この事務所の所長、つまり彼女のボスである。いつもだいたい、この時刻に電話がかかってくる。内容は、今日は行けない、という簡単かつ同一のものである。彼が事務所に顔を出すことは二週間に一度くらいの頻度ではないだろうか。少しずつインターバルが長くなっているような気がする。もしかして、休みたいがために、自分を雇ったのではないか、と小川は考えてしまう。  今日の電話も、いつもどおりの内容だった。ベルが二回鳴って切れたらその意味、と決めておけば合理化できるのではないか。 「じゃあ、頼むよ」 「あ、あの、お話ししたいことがあります」 「何?」 「今朝、鷹知さんと会ってきたのですが、そこで、私と真鍋君に、ある調査の手伝いをしてほしい、という依頼がありました」 「あ、いいよ。協力してあげなさい」 「はい、あの……、えっと、仕事の内容はですね……」 「今度聞く。今、ちょっと忙しくてね、またね」 「はい、わかりました。申し訳ありませんでした。お忙しいときに」 「チャオ」  電話が切れた。 「何だ、チャオって」思わず呟いてしまった。 「スペインの挨拶じゃないですか」真鍋が言った。新聞を見ながらなので、顔は見えない。 「イタリア語だよ。知ってるけどね」小川は溜息をついて立ち上がった。「紅茶飲む?」 「あ、淹《い》れますよ」真鍋が身軽に立ち上がった。彼の方がその目的に近い位置にいる。 「悪い悪い」小川は片手を広げて彼に微笑む。片手には、新聞を持っていた。身を乗り出して、自分が読んだ分を真鍋のデスクの上に置いた。「こういうのってさ、愉快犯っていうのかしら? うーん、つまり、世間が騒ぐところを見たいという心理から、するわけだよね」 「そうでしょうね」お茶の用意をしながら真鍋が答える。 「でね、騒いでいるのは誰なんだろうって、思うわけ」 「それは、マスコミですよ」 「そうでしょう? 新聞とかテレビだよね。そういうところは、騒ぐ方が視聴率が取れるし、新聞も売れるかもしれないわけだから、もともと騒ぎたいわけでしょう? 騒ぐことができる対象を探しているわけよね。てことはさ、その犯人と、報道する側と、両者の利害が一致しているということにならない?」 「何ですか? マスコミの中から、犯人が出てもおかしくない、という話ですか?」 「そこまで言わないけれど」 「マスコミの人たちって、表向きは、もの凄く正義感が強いみたいに装《よそお》ってますから、まさかそんな、自分たちで犯罪を犯したりはしないでしょう」真鍋が言った。お湯をカップに注ぎ入れている。 「だけど、自分たちでやらなくても、煽《あお》るようなことはあると思うの。たとえば、暴走族に取材したりするじゃない。ヤラセに近いことって、あると思うなぁ」 「今回の切り裂き魔を、小川さんはそういうふうに見るわけですか」 「いえ、それはまた別。うーん、そうね、この事件は、何だろう、もっとプライベートな匂いがするな」 「匂いですか」 「満員電車っていうのが、象徴的だと思うんだけれど、あれって、ほら、個人の部屋なんだよね、ようするに」 「は? 満員電車がですか?」真鍋は首を捻《ひね》った。 「大勢の人間が、触れ合うほど近くにいるんだけれど、でも、あれは会っているわけじゃないでしょう?」 「まあ、他人どうしですね。それはでも、街を歩いているときだって同じだし、デパートやイベントの混雑だって似たようなものだし」 「そうそう、何ていうのかな、周囲の人間は、単なる障害物なんだよね。風景っていうか。いうなれば、騒音みたいなもの。自分の部屋に侵入してきたちょっと邪魔な騒音。でも、基本的には、自分の部屋として自覚している人がほとんどだと思う。ほら、本を読んだり、音楽を聴いたりしてるでしょう? そうでも考えないと、あの通勤時間っていうのは、自分の人生にとって何なの、ってことになるわけよ」 「何なんですか?」 「一日に十分や二十分ならば許せるけれど、毎日一時間も二時間も電車に乗る人だっているんだよ。往復で三時間とか四時間だってざらなんだから。そうなっちゃうと、一日って活動時間、せいぜい十八時間くらいだから、約六分の一も電車に乗って過ごしているわけじゃない。それって、人生でいったら、十年間くらい電車の中ってことになるでしょう? 殺人を犯して、監獄に入れられても、十年くらいで出てこられるのに」 「あの、小川さんが言いたいことが、僕、よくわからないんですけど」  真鍋は、カップを小川のデスクまで運んできたあと、元の席へ戻った。小川は、さっそく熱い紅茶に口をつける。そして、自分は何を言いたいのかな、と考えた。 「なんか、通勤電車に恨みでもあるんですか?」真鍋がきいてきた。 「うん、ああ、そうかもね」小川は頷く。「私、若いとき、郊外の方に住んでいたから、そのときは大変だったのよ。一人で都心に住むようになって、どれだけ楽になったか」 「僕、東京へ出てきてびっくりしましたよ。人がいっぱいいるから。でも、そんなに酷い満員電車って、あまり乗るようなことはないですから、今のとこ、助かってますけど」 「それ、ちゃんと授業に出ていないからじゃないの?」 「まあ、それもありますね」真鍋は視線を窓の方へ一度向けた。「満員電車を恨んでいるとしたら、鉄道会社を恨んで、駅に悪戯《いたずら》をするとか、そっちの方向へ行きそうなものじゃないですか」 「今回の事件は、うん、そんな恨みじゃないと思う。単に、自分のやったことを世間が取り上げて、みんなで話題にしてもらいたいだけ」 「現行犯でないかぎり、捕まえにくいんじゃないですか? 警察だって、そんなに真剣になって捜査してないと思うなあ。人が死んだりしないかぎり、本腰は入れないとか」 「でも、通り魔による傷害事件なわけでしょう? 殺人未遂じゃない」 「殺すつもりはないでしょう。ナイフって、小さなカッタナイフくらいだと思いますし。なんていうか、殺すつもりなら、さっと切るようなことしないで、ぶすっと刺して、傷を深くする方が有利だし、満員電車の中だったら、むしろその動作の方が目立たなくて、簡単だと思いますよ」  真鍋のその発言には、小川は少し驚いた。さっと切るような、というのは、新聞の記事から読み取ったのだろう。衣服が二十センチから三十センチにわたって剪断《せんだん》されていた、とあった。彼の言うとおり、致命傷を負わせることが目的ならば、長い傷よりも深い傷を負わせることを狙うはずである。 「やっぱり、カッタナイフよね」紅茶を飲み、小川は溜息をついた。「包丁とかじゃなくて」 「包丁なんか持っていたら、めっちゃ危ないですよ。自分も怪我をしそうだし。カッタだったら、手に隠れるくらい小さいやつだってあるじゃないですか。キーホルダになっているのもあるし」 「ところで、相手は誰でも良いというわけじゃないのは、どうしてだと思う?」突然、疑問を思いついて、小川は素直に言葉にした。「三人とも女性で、しかも年齢がだいたい同じだったでしょう?」 「男の方が多いですよね、ラッシュ時の電車の中」真鍋は言う。「でも、やっぱり、ある程度、狙いみたいなものは必要だと思うんです。同じ人間がやっているんだ、というサインにもなりますしね」 「サインか」 「それに、やっぱり、女性が悲鳴を上げるのを見たい、という欲求があるのかも」 「弱い者を選ぶ、ということ?」 「うーん、どうかなぁ。男の服だと、切っても気づかれない、ということはあるかもしれませんよ。背広なんか、背中を切られても、知らずに行っちゃうかもしれないし。あ、そうか、もしかしたら、そういうふうに事件にならなかったなんてことがあったのかもしれませんね」 「でも、そのとき気づかなくても、服が切られていたら、警察に届けるんじゃない? これだけ話題になっているんだから」 「そうですね。じゃあやっぱり、最初から女性を狙っているんですかね」 「犯人として、どんな人物を想像する?」 「いや、べつに、具体的なイメージはありませんけど、まあ、しいていえば、若い男性で、あとは……、昼間に起きている人間かな」 「え? どうして、そんなことがわかる?」 「夜型の人間だったら、朝のラッシュの電車は、敬遠するんじゃないかなぁ」  少し可笑《おか》しかったので小川は笑った。 「でもね、これ、犯人にしたら、そこそこ気合いを入れて臨んだプロジェクトなわけでしょう? だったら、それくらいのことは……」 「いえ、だって、最初が朝だったんでしょう?」真鍋はこちらへ視線を向けた。片手にカップを持ったままである。「つまり、最初のときは、それほど遠大な計画ではなかったと思うんですよ。ちょっといらいらしていただけで、たまたま電車に乗っているときに急に思いついて、今ならできるかなっていうくらいで実行した。たまたまポケットにカッタナイフが入っていたのかもしれない。ということはつまり、犯人は日常的に、朝のラッシュに満員電車に乗る生活をしているのだと思います」 「なるほどねぇ」小川は頷いて感心の溜息を漏らした。「でも、その、ポケットにカッタナイフが入るっていうのは、やっぱり男性だね」 「ええ。たぶん」真鍋は頷く。「それから、最初の鉄道が、犯人が日頃利用している路線ってことになりますね」 「おお、そうかぁ」小川は口を丸く開けた。「凄《すご》いじゃん」 「凄くない。当たり前ですよ。それくらいでは、全然絞られませんからね」真鍋は飄々《ひょうひょう》とした口調である。「一度やってみたら、けっこう気持ちが良かったんでしょうね。最初のときは、その場では大騒ぎになったかもしれませんけど、マスコミはあまり取り上げなかった。だから、もう一度やってやろうと考えたわけです。二回めからはちゃんと計画をして、わざと遠くへ行って実行した。したがって、自分が使っている路線ではありませんし、時間帯も、そこへわざわざ出向いたわけですから、その分ずれていたはずです」 「その日は仕事を休んだってこと?」 「そこまですると、のちのち疑われるかもしれないから、仕事の合間というか、たとえば、外回りをしているとき、ちょっと足を伸ばしたとか」 「うん、なんか、具体的になってきたじゃない。真鍋君と話していると、犯人が今にも判明して、事件が解決しそうな気がしてくるよ」 「絶対そんなことにはなりませんよ。たとえば、今、もう犯人が満足してしまって、これで犯行を打ち切ったら、きっと迷宮入りですよね」 「そうかなぁ……」小川は考える。たしかにそのとおりかもしれない、とは思えた。「捜査としては、どんなアプローチがあると思う?」 「そうですね、まずは三人の被害者になんらかの共通点がないか、というのが、捜査を進める、まあ順当な筋かと思いますけど」 「凄い凄い。どうしてそんなこと、ぱっと思いつけるの?」 「小説とかドラマとかの影響だと思います」真鍋は簡単に答えた。「だけど、今回の場合は、三人に共通点があったとしても、意味がないですよね。だって、そもそも、被害者を選んで狙ったわけじゃなくて、たまたま乗り合わせた人だっただけなんですから」      2  鷹知祐一朗は、三人の被害者を既に把握《はあく》していた。最初の一人は新聞社の知り合いから、次の一人は鉄道の駅へ問い合わせて、それぞれ情報を得ることができた。最後の一人は警察の知り合いから聞き出そうとしたが、これがうまくいかなかった。最近、この種のことは難しくなったのである。ところが、意外なところから、情報が入った。それは、今回の捜査の依頼主である川戸道久本人からだった。なんと、三人めの被害者は、川戸が勤めるD建設の社員だったのである。自分の会社の社員が被害にあった現場で、彼は容疑者扱いされたことになる。  まずは、被害者の話をそれぞれ聞くことにした。電話をかけ、自分が探偵で、この事件について調べている、と正直に説明をしたうえで、事件に関して質問をした。今のところ、まだ直接会うようなことは控えている。こういったものは、ステップを踏む必要があるだろう、と考えていたからだ。  新聞などで語られていること以外に、特に重要な手掛かりは得られなかった。こんな捜査をしているのも、とりあえずは、三人の被害者から当たる以外に調査のやりようがなかったからである。  もちろん、大いなる矛盾を鷹知は自覚している。被害者相互に繋がりがある可能性は極めて低い。犯人は、被害者がどこの誰なのかなど知らずに犯行に及んだ公算が大きい。まったく偶然に選ばれた獲物だったはずだ。  地下鉄の入口に入ろうとしたとき、電話がかかってきた。小川令子からだった。 「もしもし、小川です」 「はい、どうも、鷹知です」 「今朝のお話ですけれど、椙田さんの許可を取りましたので、いつでも、お手伝いできますけれど」 「ああ、それは助かります」 「とりあえず、何をしましょうか?」 「そうですね、あ、そうだ……」鷹知は腕時計を見た。時刻は夕方の四時半である。 「小川さん、今から出られませんか? 僕、これから川戸さんに会いにいくんですけど、一緒にいかがですか? 話を聞かれた方が良いでしょう?」 「うわぁ、なんか、昔の仕事関係だから、ちょっと恥ずかしいなあ」 「駄目ですか?」 「いえ、そんなこと言っていられませんね。行きます」 「じゃあ、五時に、赤坂見附《あかさかみつけ》で」 「了解。三十分後ですね」 「よろしく……」  地下鉄に乗って移動。鷹知自身は、赤坂見附に約束の十分まえに到着してしまった。時間があったので、近くの書店に入って、雑誌を立ち読みした。そこへ電話がかかってきて、五時五分まえに、小川と合流することができた。カーブした坂道の大通り、その歩道を上っていき、D建設の本社へ向かった。 「小川さん、D建設へはいらっしゃったこと、あるんですか?」 「ええ、何度か」 「建設関係のお仕事だったんですね」 「いえ、そうじゃありません。情報関係です。コンピュータというか」 「ああ、なるほど」 「なんか、もうすっかり昔のことっていう感じ」小川は苦笑した。「そんな時代もあったっけ、みたいな」 「また、戻ってくれっていう話があるんじゃないですか? 引き抜かれますよ」 「いえ、そんなことはないと思う」彼女は首をふった。「人間なんて、いくらでもいるんだから。どんどん新しい人が育つし、一度離れたら、どんどん古くなっていく」 「そういうもんですか」 「ええ」 「大変でしょうね、こう、決まった時間に決まった場所へ出勤するっていうだけで……。そういう仕事って、それだけで窮屈《きゅうくつ》な感じがしてしまうけど」 「いえ、そんなことはないわ。どちらかというと、決められている方が楽だと私は思う。とりあえず、そこにその時間いればいいんですからね」  本社ビルのロビィに入り、受付で川戸の名前を告げる。すぐに話が通じ、二人は案内されたとおりエレベータに乗った。 「ああ、なんか緊張する」小川は微笑んだ。 「こういうの、慣れているのでは?」 「いえ、いつも緊張することにしているの。緊張しないとうまくいかないでしょう?」 「ああ、それで、僕は駄目なのかなぁ」鷹知が片方の目を細めた。「リラックスしすぎなんだ」  ホールで女性が待っていて、彼女がその先を案内してくれた。川戸道久の部屋に二人は入った。木目の家具に黒いシンプルなソファ、分厚いガラスのテーブル。川戸は奥のデスクで電話をかけていたが、すぐに受話器を置き、こちらへ出てきた。 「ああ、懐《なつ》かしいねぇ、小川さん」 「どうも、お久しぶりでございます」小川はお辞儀をした。 「さ、どうぞ、掛けて下さい」そう言いながら、川戸は肘掛け椅子に座った。鷹知たちは対面のソファに並んで腰掛ける。 「何? またどうして?」川戸が身を乗り出して、小川にきいた。「こんななんていっちゃあ失礼かもしれないけれど、まえの仕事は、結局、辞めてしまったの?」 「はい。今は、探偵事務所に勤務しております」 「ああ、そうなの。あれ、もしかして、鷹知君とは、まえからの知り合いだったわけ?」 「いえ、違います」鷹知は答える。「小川さんとは、このまえの佐竹家の件で、偶然知り合いました。同業者です。今回ご依頼の件では、彼女の事務所と協力して調査を行いたいと思います。僕一人では少々手に余ると考えまして」 「ほうほう、なるほど、そうか」川戸は頷いた。「では、どうかよろしく頼みます」彼は膝に両手を当て、頭を下げる。「いやあ、とにかく、とんだ濡れ衣でね、不名誉で、不愉快極まりない。なんとか、犯人逮捕に協力をして、汚名を返上したいと思ってね」 「ご期待に添えるよう努力いたします」小川は社交モードで微笑んだ。  鷹知は、三人の被害者と接触したことを報告した。共通点としては、いずれも三十代で独身、会社勤めあるいは公務員であること。三人のいずれも、ほかの二人のことを知らないと話している。関係はなかったものと思われる。 「予想どおり、被害者から辿《たど》っていくのは、無理があるように感じます」彼は自分の考えを話した。「恨みを買って標的にされたとは思えません。単にその電車に乗り合わせただけです。となると、こちらの線からのアプローチは無駄骨になります」 「では、どんなアプローチがある?」川戸が尋ねた。 「いえ」鷹知は息を吸った。「今のところ、証拠品があるわけでもなく、目撃者がいるわけでもありません。議論はできますが、調査を行うにしても、どこから手をつけていけるかは、はっきり申し上げて、難しいところです」 「次の事件を待つしかない、ということかな?」川戸がじっと鷹知を見据える。やはりこれくらいの人物になると、どことなく視線に圧力のようなものが備わってくるのだろうか、と鷹知は思った。 「私は、もう少し、被害者のことをよく調べてみる価値があると思います」小川が言った。「犯行のインターバルが比較的長いし、場所も違います。安易に繰り返されているわけではない、という気がします。ある程度、選ばれているのではないかと」 「うん、しかしそれは、被害者がどんな人物か、ではなくて、ただ、場所とか電車の混み具合とか、乗ったときの位置関係といった条件を選んでいるだけだと思う」鷹知は小川に言う。 「私もね、もし自分があんな目に遭《あ》っていなかったら、そう考えた、つまり、被害者は単なる偶然で選ばれている、と考えたと思うんだ」川戸が口もとを緩《ゆる》めた。「ところが、私の方を指さして、この人です、と叫んだ女が一人いたんだ。今でもそれをしっかりと覚えている。あれは、絶対に勘違いというようなものではない。明らかに、意図的なものだった」 「意図的なもの?」鷹知は尋ねる。 「川戸さんを陥《おとしい》れようとしてやった、ということでしょうか?」小川もきいた。 「いや、そこまではわからない」川戸は首をふった。「ただ、あの女は、普通じゃなかった。もしかして、私こそがこの事件の唯一の目撃者ではないか、と思うんだ」 「その女が犯人だと?」小川が片手を口に当てる。「え、犯人は女性なんですか?」 「どうかな、あるいは一人ではないかもしれない。仲間がいたのかもしれない」川戸は答える。「どちらにしても、通りすがりの人間ではなかったように思う」 「どうしてそう思われるのですか?」鷹知は質問する。 「顔がわからないようにしていた。帽子を被《かぶ》り、大きな色メガネをかけていた。首にはスカーフ。長袖のブラウス。ズボンだったかスカートだったかは、覚えていない。すぐにいなくなってしまった。これもおかしい。普通の人間ならば、その場に留《とど》まるはずじゃないかね?」 「それはそうですね」鷹知は頷いた。「人相はわかりませんでしたか? 体格の特徴は? 年齢はいくつくらいですか?」 「普通の、そう、二十代か三十代か、それとも四十代の女性だと思う。声が高かったように覚えているが」川戸は言った。「どうして、私を指さしたのか知らないが。自分が逃げるためだったのか、それとも、私のことを知っていたのかもしれない。切られた岸本《きしもと》君も、うちの社員だったわけだし」  岸本という人物が三人めの被害者だ。このD建設の社員だったのである。その第三の事件から既に一週間近くになるが、彼女はまだ仕事には復帰していない、と鷹知は聞いていた。 「今日、彼女、出てきたよ」川戸はつけ加えた。「大したことがなくて良かった。あとで、会っていくかね?」 「あ、是非」鷹知はすぐに頷いた。      3  川戸が岸本に電話をかけてくれた。彼自身は、会議があるのでこれで失礼する、と二人に言った。岸本|真由《まゆ》は、別のフロアの大部屋にデスクがあった。応接セットが並べられたコーナへ移動して、三人で話をすることになった。パーティションと観葉植物に囲われて、ほかの者には見えない。鷹知は、電話で彼女と話したことがあるようだ。小川は簡単に、アシスタントだと自己紹介をした。鷹知のアシスタントだと認識されただろう。  岸本は、小川と同年輩くらいで、小柄な女性だった。髪は短く、化粧も目立たない。仕事は事務で、積算関係だという。 「それにしても、大変でしたね」小川は言った。「とんだ災難というのか……」 「ええ、本当に」岸本は頷く。 「もう、怪我は大丈夫なのですか?」鷹知がきいた。 「はい、肩の後ろの方です」岸本は躰を捻って、指で位置を示した。「跡は残るかもしれません。でも、精神的なショックの方が大きかったと思います。本当にびっくりしました」  詳しく話をきくと、ドアが開いて、人の移動が始まる直前だったという。肩になにかが当たったとは思ったが、切られたとは思わなかった。痛かったので、ホームに出てから手で触れたら、血が出ていて、それでびっくりしてしまった。あとはよく覚えていない。その場に蹲《うずくま》っていたと思う、と彼女は話した。川戸がその駅で捕まったことも、あとで聞いた話で、そのときは知らなかった。川戸の顔は知っていたので、意識がしっかりしていれば、すぐに否定できたはずだ。電車の中で彼が自分の近くにいたはずはない、と警察にも説明した、と岸本は語った。 「後ろに、どんな人がいたのか、思い出せませんか?」鷹知が尋ねた。 「いえ、まったく」岸本は首をふる。「とにかく満員でした。ドアの近くにいたんですけど、ぎゅうぎゅう詰めで、身動きができない状態でした」 「その時間はいつもそうなのですか?」 「だいたいそうです」 「ほかの被害者の人たちをご存じないですか?」鷹知は別の質問をした。「写真は、ご覧になられたんですよね?」 「ええ、警察で見せていただきました」岸本は即答した。「お一人の方は、まったく見覚えがありませんでした。最初の被害者の方です。でも、えっと、二人めの方……、名前までは覚えていませんが、どこかで見たことがある顔だと思いました。ただ、私の勘違いかもしれないし、他人の空似かもしれません。警察でも、そう答えました。そのときは、思い出せなかったんです」 「え、では、思い出されたのですか?」鷹知が身を乗り出した。 「はい」岸本が顔を上げて頷く。「昨日、会いました。というか、見かけただけです。いつもそこで顔を見ていた人でした。面識はありません」 「どこですか?」鷹知がきく。 「これ、まだ、警察にも話していないことです。だって、関係ないですよね、こんなこと」 「どんな小さなことでも、捜査の参考になります」 「私、以前から、カウンセリングに通っているんです。最初は、頭痛や吐き気があって、病院で診《み》てもらったのですが、どうも精神的なストレスじゃないかって言われて、紹介してもらったんです。もう一年以上まえになります。そこの待合い室で、二、三度でしょうか、顔を合わせていました。いつも私のまえが彼女だったんですね。昨日も私、気づいてびっくりしましたけど、向こうはたぶん、気づいていないと思います」 「カウンセリング? どこですか? あの、もしよろしければ、教えていただきたいのですが」鷹知は言った。 「先生のご迷惑にならないかしら」岸本は困った顔をした。  警察よりは迷惑にならないはずだ、と鷹知は説明をした。岸本からその情報をきき出し、面会は終わった。エレベータに乗ったところで二人だけになり、鷹知は言った。 「次の課題が目の前にある、という状況は良いね」  大通りでタクシーを拾って乗り込む。時刻は五時四十五分である。 「電話をしておいた方が良くない?」小川は尋ねた。 「いや、こういうのは、飛び込みの方が良い。身構えられるまえに行くに限る。準備をされると、見えるものも見えなくなるんだ」  鷹知のこの言葉は、経験に裏付けられたものだろう。職人の言葉のようだ。なるほどな、と小川は素直に感心した。  私鉄沿線の住宅地である。道が少々混雑していたが、細い裏道を抜けて、四十分後に到着した。岸本真由がこの近所に住んでいるわけではない。彼女の自宅は、さらに鉄道で郊外へ駅五つほど行ったところだそうだ。  駅から徒歩で五分ほどの便利な場所だった。バス通りに面したマンションの三階が目的地である。表札は普通の個人住宅のものと同じくらいのサイズで、個人の名前ではなく、小さく〈佐久間《さくま》クリニック〉と記されていた。インターフォンがそのすぐ下にあった。 「君の方が良いかもしれない」鷹知が突然言った。 「え、どうして?」 「なんとなく」  小川は前に出て、インターフォンを押した。 「はい」少し遅れて、スピーカから男の声が応える。 「小川と申します。初めて伺ったのですが」 「はいはい。開けますので、中でお待ち下さい」  ドアのロックが外れる小さな音がした。  二人は玄関に入った。そこでスリッパに履き替える。右手に部屋があって、壁際にベンチがL字形に置かれていた。液晶のテレビがあるが、今はついていない。マガジンラックに女性向けの雑誌が数冊。窓には、小さなサボテンの鉢が三つ並んでいた。べつに匂いがしたわけではないが、やはり医院の雰囲気《ふんいき》が漂っている。  通路の奥から男が現れた。白衣ではない。柄物《がらもの》のシャツにジーンズというラフなファッションだった。四十代か五十代。長身で髪はグレイ。同じ色の口髭《くちひげ》をたくわえ、銀縁のメガネをかけていた。 「はい、どちらのご紹介ですか?」彼は小川を見てきいた。それから、鷹知を一瞥《いちべつ》する。「ご主人ですか?」 「あの、はじめまして。佐久間先生ですか?」 「はい、そうです」  小川はお辞儀をしてから、用意していた名刺を手渡した。鷹知も名刺を差し出して、簡単な自己紹介をした。電車の切り裂き魔の捜査をしている。警察とは関係がない。民間の探偵事務所だが、都合で二社で協力をして捜査に当たっている。ここへ来たのは、D建設の岸本真由から情報を得たからである。秘密は厳守するので、協力をお願いしたい、といった説明をした。 「ああ、そうですか……」佐久間は何度かうんうんと頷いたあと、「ようやく来ましたか」と呟いた。  その言葉には、少なからず期待を抱かされた。  奥の部屋へ移動する。診療室のようだが、壁には本が並べられ、ゆったりとしたスペースに上等なソファがあった。さらに肘掛け椅子が一脚。ベッドなどはない。ソファに小川と鷹知が並んで座り、肘掛け椅子に腰掛けた佐久間と向き合った。 「では、先生は、既にお気づきだったのですね? 被害者のうち二人が、こちらの患者さんだったということを」小川はさっそく切り出した。インターフォンのボタンを押したときから、今回は自分が前面に出る役目、と認識していた。 「患者ではなく、クライアントです」佐久間はソフトで落ち着いた口調だった。 「あ、すみません」 「警察には知らせておりません。そういった秘密を守るのが、この仕事の基本、つまり職業倫理です。ご本人が私に、電車でこんな事件に巻き込まれた、とお話しになりました。私は、ただそれを聞いただけです。当然ながら、ほかにも、私のクライアントで同じ事件に遭われた方がいる、なんて話は、それぞれにはしていません。ですから、このことを知っているのは、今のところ私だけです」 「岸本さんが、警察でほかの被害者の写真を見て、こちらで見かけた顔だと気づかれたのです」 「ああ、そうか。岸本さん、いつも早く来られるからね」佐久間は微笑んだ。「本当は、クライアントどうしが顔を合わせないように、時間を設定しているんですけれど、なかなかそうきっちりといきませんので」 「これは偶然でしょうか?」鷹知がきいた。「お二人には、なにかほかにも接点があったと思われますか?」 「うん」佐久間は頷いてから目を瞑《つむ》った。脚を組み、ソファにもたれかかり、外見的にはリラックスした姿勢だった。「どうしたものかなあ」 「事件の解決には、情報が必要です」鷹知がつけ加える。「先生にも、それに、こちらのクライアントの方にも、ご迷惑をおかけするようなことはないと考えますが」 「クライアントも、被害者であったことを隠しているわけではない。したがって、それは秘密ではない、と解釈できます」佐久間は歯切れの良い口調で話した。「ただ、彼女たちがここへ来ていること、それがプライベートな情報なのです。公にはできません」佐久間は話した。「そこのところは、大丈夫ですか? 今のところ、私は警察に話すつもりはありません。向こうからききにきたら、しかたがないかな、くらいには考えていたんですけどね。それが、まさか、探偵社の人がさきに来るとは想像もしなかった」 「どうかお願いいたします」小川は頭を下げた。「被害者のなかには、何針も縫うような大怪我をされた方もいます。放っておけば、犯行がエスカレートする可能性もあります」 「はい、それは認識しています」佐久間は頷いた。腕組みをして、またしばらく目を瞑っていた。そして、息を吐き、目を開けて話した。「警察だったら、話していないかもしれない。とにかく、岸本さん自身が、ここを教えたということが大きいかな。そうですね、話した方が良いかもしれない」 「お願いします」もう一度頭を下げる。 「私は、偶然ではないと考えています」佐久間は言った。 「え? では、犯人は、二人がここへ来ていることを知っていた、ということですか?」鷹知が早口できいた。 「そこまではわからない。でも、私が、偶然ではないと考えた理由は簡単です」佐久間は言葉を一度切って、二人をそれぞれ見つめた。「実は、二人だけじゃない。三人とも、うちのクライアントなんです」  小川は驚いた。言葉が出てこないほどだった。  数秒間の沈黙があった。 「三人とも、こちらの……」彼女はとりあえず、言葉にする。それがどんな意味を持っているのか、まったく頭に思い浮かばなかった。 「偶然ではない」佐久間が念を押すように言う。「ですから、私が考えたのは、三人はお互いに知り合いなのだろう、ということです」 「そうなんですか?」 「知りません。ただ、少なくとも、本人からはそんなことは聞いていません。事件の話はしています。ですから、もしお互いに面識があるのならば、そういった話が出るでしょうね。でも、そういったことは一度もない。となると、もしかして、ここを紹介した病院が共通だったか、とカルテも調べてみましたが」佐久間は首をふった。「全然違いました。三人とも、ここへ来た経緯に共通点は見出せません」 「三人は、どんな症状なのですか?」小川は尋ねた。「あの、症状という言い方は不適切かもしれませんが」 「それは、お答えできませんね」佐久間は微笑んだまま首をふった。 「三人とも、被害に遭った話を先生にしたのですね?」鷹知は念を押した。「どのような話だったでしょう?」 「そうですね。事件のあと、初めてここへ来たときに、大変な目に遭った、という話を聞きました。二人めのときには、私自身、とても驚きました。でも、もしかしたら、偶然かもしれない、とはまだ考えていました。本人にも悟られないように注意をして黙っていました。それが、昨日、三人めになったわけです。どうしたものか、と昨日の晩は、ええ、悩みましたよ。誰にも相談できませんのでね」佐久間は笑った。彼なりのジョークだったようだ。 「なにか、思い当たるようなことがありませんか?」小川は尋ねる。自分の鼓動が速くなっているのを感じた。「どんなことでもけっこうです」 「いや、まったく」佐久間はゆっくりと首をふる。「なにもないですね」 「たとえば、彼女たち三人が、ここのクライアントであることを、知りえる人間はいませんか?」鷹知が尋ねた。「顧客のリストを見ることができるのは、先生以外にどなたかいますか?」  その質問には、小川は感心した。同時に、自分で思いつけなかったことが少し悔しかった。何を問うのか、ということが、この職業には最も大切な能力だ、と言ったのは、そう、上司の椙田である。 「私以外にはいないと思いますね。私は誰にも話さない。リストはコンピュータに入っていますが、私以外には、誰も触りません。あとは、そうですね。ここへ来たとき、待合室で顔を合わせるくらいでしょう。岸本さんみたいにですね。しかし、話をすることはない。すれ違うだけです。滅多《めった》にそんな機会もないと思いますよ」      4  鷹知と二人で食事をすることになるのでは、と少しだけ期待していたが、彼はこのあと警察の人間と会う約束がある、とのことで私鉄を降りた駅で別れた。小川は、どうしようかと迷う。事務所に一度戻るか、このまま帰宅するか。時刻は七時を回っていた。真鍋はもういないだろう。しかし、事務所へ電話をしてみることにした。すると、すぐに繋がった。 「あ、真鍋君いた?」小川は話す。 「いや、僕だよ」椙田の声である。 「あ、すみません」大いに慌ててしまう。「椙田さん、いらっしゃったんですか。珍しいですね」 「うん、たまに珍しいこともしないとね」 「今から戻ろうと思っておりました。まだいらっしゃいますか?」 「うん、いるよ」 「では、二十分か三十分で帰りますので」 「小川さん、食事した?」 「いえ、まだです」 「一緒にどう?」 「あ、嬉しい」 「じゃあ、どこか予約しておくよ。駅で待っている。タクシー乗り場の前で」 「はい、わかりました。それなら、十五分くらいで行けます」  小川は急に躰がポップコーンみたいに軽くなった気がした。ラッキィな夜ではないか。真鍋がいないようだから、つまり椙田と二人だけだ。椙田とは、なかなかゆっくりと話をする機会がない。過去を振り返ってみても、片手で数えられるほどしかなかった。  椙田という男は、実に掴みどころがない。最初に会ったとき、とにかくこの男にはなにかがある、というオーラを感じた。それが、就職を決意した最大の要因である。この人物とならば、仕事ができる、と直感した。おそらく、まえの仕事のとき彼女の上司だった人物と共通するものが椙田にはあったのだろう。それが何か、具体的にはわからない。共通しているのは、性別と年齢くらいで、見た目は全然異なる。椙田の方がずっと若く見える。髪は長いし、髭を生やしているし、ファッションはトロピカルだし、冗談は多いし……。ああ、そうだ、話すときのイントネーションが似ているかもしれない。一言でいえば、優しい声。ときどき、どこかインテリジェンスが響く。自分のことを話したがらない、というのも似ている。これは、子供っぽいといえるかもしれない。普通は年齢を重ねるほど、それだけの過去を持っているわけだから、つい自分の経験を語るようになるものだが、彼らにはそれがない。だから、逆に知りたくなってしまうのかもしれない。その奥にあるものを覗き見たい、という欲求に駆られるのだ。  電車が走っている間、釣り革に掴まって、窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、数々の妄想が彼女の頭の中を駆け巡った。降りなければならない駅名を耳にして、ようやく小川は現実に戻り、電車から降りた。  ドアが開く一瞬、後ろを振り返ってしまった。降りる人間が集まっていた。満員電車だったら、もっと密集するだろう。そうか、こんなときに切られるのだな、と少し考えた。誰も周りの人間なんか見ていない。気にもしていない。降りる先、ホーム、そして階段の位置を見つめている。  人の流れは階段やエスカレータを通過して、改札を抜ける。椙田の姿を探して、タクシー乗り場の方へ小川は急いだ。  建物から出て、ロータリィを見回す。彼の姿はなかった。電話を取り出して、モニタを見ながらボタンを押そうとしたとき、後ろから声をかけられる。すぐ隣に椙田が立っていた。 「あれ? どこにいらっしゃったんですか?」 「姿を消していた」  そのまま前進してタクシーに乗り込む。彼が運転手に行き先を告げた。地名は耳に入ったけれど、どんな店なのかは尋ねないことにしよう。そちらの方が楽しい。  車中では、今日、鷹知祐一朗とともに会ってきた人々、そして得られた情報について報告をした。椙田は、どこまでこの事件のことを知っているだろう、と途中で不安になった。ニュースなどをまったく見ていない可能性もある。シートにもたれかかり、聞き入ってはいたが、口を挟むようなことは一度もなかった。興味がない、というふうにも見える。  話すことが尽きて、静かになった。小川も風景を眺めることにする。行き先に関することで、運転手と椙田が二、三言葉を交わしたくらい。やがて、タクシーは目的地に到着した。  降りた場所から細い道に数十メートル入ったところに小さな店があった。テーブルは五つしかない。一番奥だけが空《あ》いていた。そこが予約席だった。椙田が窓を背にして座り、小川も対面の席に着いた。 「イタリアンですか?」小川は店の様子を眺めながらきいた。 「たぶん」椙田は答える。  飲みものを注文する。椙田はビールだった。小川は迷ったものの、椙田が勧めるのでワインを頼んだ。テーブルには、キャンドルが炎を揺らしている。生まれながらに溶けているような形の蝋燭《ろうそく》だった。グラスが運ばれてきて、軽く持ち上げてタイミングを合わせ、二人は口を湿らせた。 「あの、なにか、指示はありませんか?」小川はきいた。 「指示? ワインの飲み方の?」 「いえ、仕事のことです」彼女は笑った。しかし、自分がいかにも無粋《ぶすい》に思えたので、急に反省した。「そうだ、こんな話、しない方が良いですね、今は」 「いや、今がどんなときなのかも、個人の自由だと思うよ」 「じゃあ、酔わないうちに、少しだけ」彼女はグラスをテーブルに戻した。「さきほどの話なんですが、どんなふうに思われましたか? こういった捜査依頼というのは、珍しいのでは?」 「極めて珍しいね」椙田は頷いた。「僕が一番興味があるのは、依頼主だ」 「川戸さんですね」 「どうして、こんなことのために金を出す気になったのかな。いくら払うつもりだろう?」 「お金の話は、まだ鷹知さんともしていません。そうですね、それは聞いておかないといけませんでした、仕事を一緒にするのなら」 「警察もそれほど本気になって捜査はしていないだろうけれど、しかし、君たち数人が動くのに比べれば、格段に広く深く捜査が可能だろう。どう考えても、警察に任せておけば良いように思うのが普通だ」 「でも、今日の佐久間クリニックの情報は、警察には流れなかったものです。これは幸運だったのではないでしょうか?」 「うん、まあ、いずれは警察だって嗅《か》ぎつけるかもしれない。早いか、遅いかの違いだ。なんだって、歩けば棒に当たる、というやつかもしれない」 「意味はあるはずです」 「意味、というと?」椙田は煙草を取り出す。金属製のライタがぼんやりとした黄色い炎を灯す。彼は煙を吐いてから言った。「つまり、同じクリニックの三人が被害者であったということの意味だね?」 「そうです。どうして、そんなところから、そんな条件から目標を選んだんでしょうか?」 「まず考えられるのは、その佐久間氏に対する嫌がらせだな」 「ああ、そうですね」小川は驚いた。彼女自身は考えていない可能性だった。「そうか、それはありえますね」  少し考えてみた。そう考えると、それ以外にありえない、というほど説得力があるように思えてきた。 「動機なんて、まあ何だっていい」 「え?」 「その三人がそこのクライアントだと知りうるのは?」 「佐久間医師だけです」 「でも、それは表には出ない」 「そうです。公にはならないから、犯人にもリスクもない、ということですね」小川は話す。「ただ、佐久間さんが警察に事実を打ち明ければ、犯人にとっては非常に危険な状態になるはずです」 「その医師は、犯人を知っていそうだった?」椙田がきいた。 「え? いえ、それは、わかりません。どうでしょう、知っていて、私たちに話さなかった、ということもあるかもしれません」 「うん」椙田は頷き、煙を吐く。「知っていたら、警察に連絡をしている可能性が高い。身の危険を感じるような場合ならば、なおさらそうしているだろう」 「そうではない、と私は思いますが」 「となると、嫌がらせというのは、違っているかもしれない」 「でも、まだ、途中なのかもしれません」 「まだ事件が起こる、ということ?」 「そうです。さらにまた、佐久間クリニックに通っている人が襲われるかもしれません」 「うーん、どうかな」 「警察には、連絡をしない、ということでよろしいでしょうか?」  椙田はすぐに頷いた。小川もこれは確認をしただけで、自分の判断と同じだった。 「たとえば、次に起こる事件でもっと大きな被害が出て、何故情報を隠していたんだ、なんて言われたら、責任を感じますけれど」 「うん、その覚悟はしておいた方が良い」椙田は簡単に言った。「そんなのは、どんな仕事にもつきものだよ。車を運転するのだって、人を轢《ひ》いたら責任が生じる、それと同じだ」 「でも、いくら気をつけていても、これは、自分の力では防ぎようがありませんね」  アンティパストが運ばれてきたため、話はそこで中断した。もう仕事の話はやめた方が良い、と小川は考えていた。椙田のことがもっと知りたいので、そちらへ話をもっていこう、と頭の中で作戦を練る。 「椙田さん、どうして、今日は事務所にいらっしゃったんですか?」 「いや、なんとなくだけど」 「真鍋君に会いました?」 「会ったよ」 「真鍋君は、食事には誘わなかったんですね」小川はそこで微笑んだ。そのことが自分には嬉しかった、という印象を持ってほしかったからだ。 「まあ、あいつは、帰ってラーメンでも作っているだろう。そっちの方が嬉しいんじゃないかな」 「いえ、そんなことないですよ。このまえ、レストランで奢《おご》ってあげたら、もの凄く感動していましたから、美味《おい》しいって」 「社員じゃないし」 「私は社員だから、ですか?」 「うん、経費で落とせるね」椙田は微笑んだ。 「普段は、お食事はどうされているのですか? 外食ですか?」 「まあ、それはいろいろと」 「ご自宅では?」核心の質問をした。  自宅に誰かいるのか、誰がいるのか、ということを聞き出したいのである。 「まあ、それも、自宅がどこかによる」 「え、どういうことですか?」 「あちこちに自宅があるから」椙田は煙草を消して、フォークを手に取った。 「その、それぞれに、どなたかが?」 「どなたかって?」 「いえ、留守番をされている方がいるのかなって……」 「真鍋みたいな?」  一瞬、沢山の真鍋を想像してしまって、小川は笑いたくなるくらい幻滅した。料理を口へ運ぶ。 「あ、美味しいですね」思わず素直な感想が漏れる。 「平和だ」椙田が言った。  平和? たしかに。美味しいワイン、そして料理、静かなテーブル、ミステリアスな上司、そして、危機的な香りのない関係、この状況はとても平和だ。少々、不満はあるものの。  次の料理が来るまで沈黙が続いた。  椙田の方からはあまり話さない。もう少し話してもらいたい気もする。 「なにか、私に要求はないでしょうか?」小川は尋ねた。突然思いついた質問だった。 「仕事のことで?」 「はい。椙田さんは、忙しそうにされています。私の今の勤務状態は、はっきりいって暇です。もっと仕事ができると思います。いえ、べつに暇なのが不満だというのではありません。まえの仕事に比べたら天国みたいです。でも、このままで良いのかなっていう不安はあります」 「気にしなくて良いよ」椙田は軽く答えた。「君が来てくれて、とても助かった。事務所を任せられる」 「でも、それは真鍋君でもできたことです」 「彼に頼っているわけにいかない。社員じゃないんだから」 「私は、賃金分の仕事をしているでしょうか?」 「その判断は、僕がするものだ」 「はい、それは承知していますが……」 「突然一方的に解雇するようなことはないから、安心して」 「ありがとうございます。でも、その……、もっとお役に立てれば、と思ったものですから。なにか、私にできることがあるのなら……」 「そうだね、一つだけお願いがある」椙田がそう言ったとき、店員がテーブルに近づいてきた。  パスタの皿がテーブルに並べられた。  それを待っているとき、小川の横のシートから振動音が聞こえた。バッグの中の携帯電話が鳴っているようだ。どうしようかな、と迷ったけれど、椙田も気づいて、そちらへ視線を送ったので、彼女は電話に出ることにした。モニタを見ると、かけてきたのは真鍋である。 「もしもし」 「真鍋です。小川さん、テレビ見てます?」 「いえ、見ていない」 「大変ですよ」 「どうしたの?」 「四人めの被害者です。今日の夕方だったそうですけど」 「え? またあったの?」 「今度も軽傷だって言っていますけど。やっぱりまた被害者は女性みたいですね」  渋谷《しぶや》から郊外へ出ていく線らしい。被害者の名前などはわからないそうだ。 「まだ帰っていないんですか?」 「うん、ちょっと今、お食事中なのよ」 「あれ? 話し方がやけに上品じゃないですか。もしかして、椙田さんとですか?」 「とにかく、またねぇ、バイバイ」 「隠さなくたって……」 「また明日ねぇ」  電話を切った。 「事件?」椙田がきいた。 「はい、また、切り裂き魔が出たそうです」  小川は真鍋の電話の内容を伝えた。椙田は既にパスタを半分ほど食べてしまっていた。 「とりあえず、佐久間クリニックに連絡をしてみないと」小川は言った。 「鷹知さんがもうしているよ」椙田が口を斜めにする。それから、時計を見た。「もうすぐ電話かメールが来る」  メインディッシュを食べ終わった頃に、椙田の予言どおり、鷹知からメールが届いた。小川はモニタでそれを読んだ。  今日の夕方、四人めの被害者。阿部雪枝。三十九歳、佐久間クリニックのクライアント。以上確認できました。また明日にでも。  椙田にもモニタを見せた。彼は、文字を読んでいる途中で表情を変えた。驚いたようだ。少しリアクションがオーバに感じた。何をそんなに驚いたのか。彼が顔を上げるのを小川は待った。しかし、目が合っても、彼は黙っていた。 「どうしたんですか?」思い切ってきいてみる。  椙田は彼女に携帯電話を返す。それから、ポケットから煙草を取り出した。 「同姓同名かもしれないけれど……」椙田は上目遣《うわめづか》いに彼女を見据える。いつもより明らかに眼差しに力があった。 「え?」小川はもう一度モニタを見る。そして名前を読み直した。「阿部雪枝《あべゆきえ》さん……、お知り合いなのですか?」 「うん、年齢もたしか、それくらいだ」 「どちらの方ですか?」 「君が来るまえに、アルバイトをお願いしていた人」  椙田はそう言うと、煙草に火をつけた。それから、振り返って店内を見回した。何を気にしているのかはわからない。少なくとも、デザートがまだなのか、ということではなさそうだ。小川は黙って彼の説明を待った。 「事務所を今のところへ引っ越すまえだ。近所に住んでいる奥さんだった。募集の張り紙をしたら、訪ねてきて、そうだね、一ヵ月半くらいかな、週に三日、半日くらいずつ来てもらった。そんなによくは知らない。真鍋の方が話しているはずだ」 「そうですか、心配ですね。クリニックに行かれていましたか?」 「いや、そこまでは知らない」 「辞められたのですか? だから、私が雇われたのでしょうか?」 「引越をしたから、必然的に遠くなって、家から通えなくなっただけだよ。辞めたといえば辞めたことになるかな。うん、それで、今度はちゃんとした社員を雇おうと決心した」 「真鍋君にメールして良いですか?」小川はきく。 「いや、僕が止める理由はないよ」椙田は口もとを緩めた。      5  翌々日の土曜日の午後、小川は真鍋と阿部雪枝の自宅を訪ねた。これは、鷹知祐一朗にも連絡をしておいた。今回は、プライベートなお見舞いとして訪問しよう、という判断になり、鷹知は同行しないことになったのだ。彼は昨日、佐久間医師と電話で話をしたらしい。佐久間は学会へ出張中だったという。  阿部とは真鍋が顔見知りなので、彼との組合せになった。椙田の事務所からの見舞品を持って二人は出かけた。椙田は用事があったわけではないが、自分は行かない方が良い、と言った。理由が小川にはよくわからなかったので、地下鉄に乗っているとき、それとなく真鍋にきいてみた。 「どうして、椙田さん、来なかったのかな。阿部さんが事件の被害者だって聞いたとき、もの凄く驚いていたのに」 「うーん、なんていうか、こんなこと言ったらいけないのかもしれませんけれど……」  真鍋は目を細める。 「言って言って」 「阿部さんは、椙田さんのことが好きだったみたいなんですよ」 「え? 何なの、それ。椙田さんは、それに気づいていないってこと?」 「いえ、僕が見ていてもわかるくらいでしたから、椙田さんは絶対に気づいていたと思いますよ」 「あらら、ずばりストレートじゃない」小川は微笑んでみせた。こういった場合、咄嗟《とっさ》に余裕を見せようとしてしまうのである。「それじゃあ、来ないっていうのは、つまり、椙田さんは、好かれるのが困る、と思っているわけ?」 「たぶん」真鍋が頷いた。釣り革に掴まっている腕が彼の口もとを隠しているので、表情はよくわからなかった。「まあ、引越をしたのも、もしかしたら、阿部さんのアプローチを避けるためだったかもって、僕、思いましたから」 「えぇ、そんなに凄かったわけ?」 「僕の邪推かもとは思いますけど」 「綺麗な人なの?」 「うーん、どうでしょうか、そういうのは、僕、よくわからないから」 「じゃあ、大したことないのね。綺麗だったら、綺麗だってはっきり言うもんね、君」 「いえ、そんなことないと思いますよ。まあ、会えばわかると思います」 「でもさ、主婦なんでしょう? ご主人がいるわけでしょう?」 「ええ」 「それなのに、椙田さんにアタックって、しかも、だいぶ歳上だし」 「小川さん、同じ年代なんだから、気持ちがわかるんじゃないですか?」 「同じじゃないわよ。私の方がずっと若い」 「同じ三十代じゃないですか」 「一括《ひとくく》りにしないでほしいなぁ。全然違うんだからね。私、結婚したことないし。既婚者の気持ちなんてわからないし」 「旦那さん、たしか、自衛隊ですよ」 「へえ。じゃあ、肉体派なんだ」 「いえ、そんなことは知りません」 「そうかぁ、椙田さんみたいな、スマートでソフトな感じが、旦那には欠けていたってわけね」 「あまり、決めつけない方が良いと思いますけど」 「でもね、あんまりじゃない? ご主人がいるのに、そういうことになるのって」 「うーん、まあ、そうかもですね」 「はっきりいって、倫理に欠けていると思うわ」 「でも、もの凄く面白い人ですよ」 「どういう意味?」 「なんか、ちょっと変わっています。見た目とは違うんですけど、そう、話をしていると、少女みたいな」 「ほう……、意外な表現だね」 「子供みたいなところがあるんですよ」 「子供はいないの?」 「あ、えっと、中学生だったんじゃないかな。そうそう、だから、子供が帰るまえに、家に帰らないといけなくて……」 「なんだ、子持ちか」小川は溜息をついた。「いけませんねぇ、そんな子供がいる身で不倫なんて」 「いえ、実際に不倫をしたわけではないと思いますけど」 「本当に?」 「それは、椙田さんにきいて下さいよ」 「うーん、怪しいなぁ。椙田さんだって、来ないってのが怪しいじゃん」 「椙田さんは、もともと怪しいですよ」  凄いことを言うな、と小川は思った。しかし、その表現はなかなかに的確だ。真鍋はときどき実に的を射たことをさりげなく口にするのである。  高速道路が遠くに見える住宅地の道を十分ほど歩いた。電信柱に町名と番地が書かれていた。車はほとんど通らないので、道の真ん中を歩いていける。角を曲がって三軒めの家だった。玄関が南向きで、その手前に狭いながら洗濯物が干せる程度の庭があった。真鍋がインターフォンを押して待つ。彼も、ここへ来るのは初めてだという。すぐに反応があった。 「はい」 「こんにちは、真鍋です」 「はいはい、ちょっとお待ちになってね」  玄関の戸が開いて、阿部雪枝が出てきた。顔を見た瞬間にこの人だろう、と小川はわかった。自分と同じ三十代、と意識する。ただ、身長は同じくらいだが、体重はずっと阿部の方が重いだろう、ということも容易に観察できた。顔は小作りで、たしかに可愛らしい部類ではある、などとも評価。もの凄い美人ではなくて良かった、という安堵感が一番大きかった。  声が子供のように高いのも特徴で、その声に招かれて家の中へ入った。お見舞品を手渡し、小川は丁寧な口調を意識して挨拶をした。 「あら、そう……、じゃあ、私の後任になるのね?」阿部はにっこりと笑う。「引き継ぎとかなかったけれど」 「私は、全然存じませんでした。申し訳ありません」 「冗談ですよぅ」片手を振ってから、阿部はオーバな表情で小川を見つめる。  たしかに、これは長時間一緒にいたら疲れる相手かもしれないな、と小川は感じた。椙田は、つまり彼女を苦手にしているのではないか、とも思い至る。たぶんそうだろう、とすぐに確信した。  リビングのソファに小川と真鍋が腰掛けた。阿部はキッチンへ引っ込んだが、声は届くので、ずっとしゃべり続けている。 「そうなんだぁ、椙田さんったら、困った人だわ、やっぱり可愛い人を近くに置いておきたいのよねぇ、うんうん、気をつけた方が良くてよぅ。一見優しそうだけれど、危ない感じのところがあるんだから。ときどき、底知れない、えっと、冷たさかなぁ、恐さかなぁ、そういうのがちらっと覗き見えることがあるんですよねぇ。そうそう、ね、小川さん、感じない?」 「はあ……、あまり、その、覗き見たことが、まだないものですから」小川は答えてから、真鍋の顔を見る。  真鍋はこちらを見ていなかった。壁際のキャビネットにのっている写真立てに見入っている。男女二人が写っているものだ。阿部夫婦だろう。写真の中の女性は、今の雪枝よりもずっと細い。結婚当初のものにちがいない。 「綺麗ですね、若い頃は」真鍋がこちらを向いて小声で言った。 「え、なあに?」キッチンから高い声が飛んでくる。 「あ、いえ、この写真です」真鍋は立ち上がって、その写真を手に取った。 「あらま、恥ずかしい」阿部がこちらへ駆け寄ってきた。「やだ、隠し忘れてたわ」  しかし、取り上げるというふうでもないので、真鍋はその写真を小川に手渡した。近くで見て、ようやく今の雪枝と同一人物であることがわかった。男の方もなかなかの二枚目だ。警察官のような制服を着ていた。そう、夫は自衛隊だ、と聞いたところである。 「ご主人様は、お仕事は……」知らない振りをして、小川は口にした。 「ええ、自衛隊です。ずっと海に出ているんですよ」 「あ、では、海上自衛隊なんですね?」 「潜水艦なの。ご存じでしょう?」 「え、潜水艦をですか? もちろん、知っていますけど。そんなに詳しいわけでも……」 「出ていったきり、いつ帰ってくるかもわからないんですよぅ。軍事機密っていうんですか。妻にも教えてもらえないの」 「へえ、そうなんですか」真鍋が驚いたという顔をする。 「あれ、私、言わなかった?」阿部が機敏に真鍋を振り返った。 「では、今も、その、海にいらっしゃるのですか?」小川は尋ねる。 「ええ、たぶんね」阿部は小川に笑顔を向けて答えた。「海の上か、海の下かは、知りませんけれど」  阿部はまたキッチンへ行った。お茶の用意をしているようだ。小川は、何のためにここへ来たのかを思い出した。長閑《のどか》な土曜日に友人宅へおしゃべりをしにきたのではない。  阿部が紅茶とロールケーキをトレィにのせて運んできた。テーブルにそれらを置き、自分も椅子に腰を下ろした。 「あの、お怪我の方は、いかがですか?」小川は尋ねた。 「ええ」阿部は急に眉を顰め、これまでになかった表情を見せた。右手を左の肩に触れる。「肩から横へ、五センチくらい。そんなに深くなかったから、縫わなくても良かったんです。掠《かす》り傷だって先生には言われたけれど、でもね、凄い血が出て、もうびっくりしてしまって、私」 「いつ切られたのかは、覚えていらっしゃいますか?」 「いえ、それが全然」彼女は首をふった。「電車を降りたときに、なんか、ちくちくするなあって思って触ったら、もう真っ赤になっていたんですよ」 「電車に乗っているときは?」 「うーん、鞄《かばん》を持っていましたし、満員で身動きできなかったから」 「どちらへ行かれたんですか?」 「息子を塾へ送って、少しお買いものをして、帰るところでした。駄目なの。警察の人にも、なにか思い出せないかって散々きかれたんですけれど……。もうね、ぼんやりしているから、日頃からね、なにも考えていないのよ、私って。頭がぐうぐう寝ている状態なのね、きっと」  小川は、佐久間クリニックのことがききたかった。しかし、初対面であるし、プライベートなことなので慎重を要する。今日はやめておこうと考えた。鷹知と一緒のときの方が良いだろう。  真鍋を見ると、彼はロールケーキをもう食べてしまい、満足そうな表情だった。小川も阿部もまだケーキには手をつけていないのに。 「あの……、なにか、思い出されたことはありませんか? 電車に乗っているとき、見たこととか、聞いたこととか」 「うーん、そうですね……」阿部は首を傾げる。  小川もフォークを手にして、ケーキを食べることにした。しばらく沈黙の時間が流れる。窓の外では、庭の垣根に西日が当たって白っぽく葉が光っていた。 「そうだ。昨日の夜ね、お医者様へ行ったんです。あの、息子と一緒に行っているの。お医者様っていっても、その、カウンセリングなんですけど。そこのお医者様でね、気づいたことがあるんです」  それは佐久間クリニックのことだろう、と小川は思った。ケーキを一口だけ食べたあと、フォークを置いて、阿部の次の言葉を待った。 「匂いなんですよ」阿部は言った。「柑橘系《かんきつけい》の香水なのかな。わかりませんけれど、そんな匂いがしました」 「どこでですか?」 「電車に乗っているとき。それを今頃、思い出したの。変な話ですけれど」 「あの、それと似た匂いが、そのクリニックでもしたからでしょうか?」 「あ、そうかしら……。なんとなく、そうね、そんな感じだったのかも」      6  阿部の家を辞去したあと、二人は鷹知祐一朗と合流した。そこで十分ほど話をして、真鍋は事務所へ帰り、今度は、鷹知と小川の二人で、再び佐久間クリニックを訪問した。四つめの事件の直後、鷹知が電話をしてアポを取ってあった。  玄関で出迎えた佐久間は学会から帰ったばかりだ、と話した。そのとおり、スーツにネクタイ姿だった。ちょっと着替えるから待っていてほしい、と言われて、二人は待合い室のベンチに腰掛けた。 「阿部さんは、息子さんと一緒にここへ来ていたみたい」小川は話した。「中学生だって聞いたけれど」 「来週、徳山《とくやま》さんという人に会えることになったよ。最初の被害者だ」 「匂いのこと、確かめないと」 「いや、それは望み薄だと思うな。匂いなんて覚えていないよ、たぶんね」 「まあ、人によるわね」  佐久間が呼びにきて、奥の部屋へ入った。 「先生、お忙しいところ本当に申し訳ありません」鷹知が頭を下げる。 「しかたがないよ。四人だもんね。もうこうなったら、警察に届けた方が良いだろうか、いくらなんでも、ちょっとね」 「僕から、伝えましょうか?」 「そうだね。担当の人に直接話す方が手間が省ける」佐久間は溜息をついた。「何度も同じ話をさせられるのは面倒だし。そうしてもらおうかな」 「わかりました。では、今夜にも伝えておきます」  情報を伝える役というのは、いうなれば役得である。見返りに警察の情報をきき出すこともできるかもしれない。そう考えながら小川は聞いていた。匂いも気にしていたが、残念ながら、なにも感じられない。鼻が悪い方だと思ったことはないのだが。 「四人めの被害者になってしまった阿部さんですが、実は、小川さんの事務所で、彼女の前任者だった人なんです」鷹知が説明した。 「へえ、そうなんですか。それは奇遇でしたね」佐久間は驚いた表情になった。「でも、ああ、そういえば、たしかにそんな話をしていたなあ」 「どんな話でしょうか?」小川は身を乗り出した。 「いや、それはお話しできないんですよ。申し訳ない。つい、口が滑りました。だいぶまえのことになりますが、勤務先のことをお話しになったことがあったので」 「息子さんと一緒にこちらへいらっしゃるのだそうですね」小川は言った。「阿部さんから、そう伺いました」 「ええ、もともとは、クライアントは息子さんの方でした。内向的な子でして、お母さんが心配されて連れてこられたのです。でも、ほとんど話をするのはお母さんの方で」佐久間は小さく笑った。「それでは効果的な治療にならないからって、部屋の外に出てもらったことがあるくらいです」 「四人の被害者がここへ通っている、という事実は、どうお考えですか?」鷹知がきいた。「警察に話せば、それを絶対にきかれると思いますが」 「うーん、それもね、昨日からずっと考えているんだけれど」佐久間は腕組みをした。 「まったくわからない。四人がお互いに知り合ったという可能性は少ないし。そう、そんな、同時にここに来るような機会はないからね。でも、考えたんだが……」そこで、彼は一度言葉を切った。そして、鷹知と小川を数秒間ずつ見たあと、話を続けた。「一つだけ、思い当たることが」  微妙に微笑んだような顔を佐久間は見せた。話を盛り上げるのが上手《うま》いな、と小川は感じた。学校の先生によく見られるタイプかもしれない。 「いつもではありませんが」佐久間は続ける。「気持ちが落ち着くような薬剤を欲しがるクライアントもいます。ですから、そういった場合には処方します」 「あ、薬局ですか?」鷹知がきいた。 「ええ、すぐ近くに、中野《なかの》薬局というところがありましてね」      7  佐久間医師からは、それ以上の情報は得られなかった。鷹知と小川は、その足で中野薬局へ向かった。通りを西へ百メートルほどの距離である。店はシャッタが半分閉まっていたが、まだ明かりが灯っていた。  店主は、中野|孝司《こうじ》という名の五十歳くらいの痩せた男性で、度の強いメガネをかけていた。佐久間医師に紹介されて来た、と鷹知は話した。そして、電車の切り裂き魔の被害者が、こちらへ来ていた、という事情をそれとなく説明した。もちろん、四人が四人とも、といった詳しい話はしていない。 「佐久間先生のところの方なら、ええ、大勢いらっしゃいますよ。だいたい、女性の方が多いですが」  鷹知は、四人の被害者の名前を順番に言った。最初の三人に対しては、中野は首をふった。しかし、阿部の名前が出ると、黙ったまま首をふらなかった。 「阿部さんをご存じなのですか? 私の友人なんです」小川は若干誇張して話した。 「息子さんと一緒の人でしょう?」中野は顔をしかめた。「ええ、あの、よくしゃべる。知っていますよ。ちょっと太った方ですね」印象が強かったのだろう。名前を覚えられているわけである。「たしか、お子さんの薬だったと思いますけどね」 「そういった顧客のリストは、どなたかが見る機会はありませんか?」小川は質問する。 「いや、ここに……」カウンタの中で引出を開ける。「出した薬の記録は、全部ありますけど、誰も、こんなもの見ないでしょう」 「奥様は見られますよね?」小川はきいた。 「いや、私は独り者なんで。家族はおりません」 「失礼しました。では、どなたかにお店を任せるようなことは?」 「いや、ないです」 「でも、具合が悪いときや、ご用事のあるときがあるのでは?」 「そのときは、店を閉めます。そんなこと、滅多にありません。薬屋が病気では仕事になりませんからね」  そう言われてみればそうである。鷹知が名前を調べてもらえないかと願い出た。中野はかなり渋ったものの、鷹知が執拗《しつよう》に懇願したため、結局はノートをカウンタの上に取り出し、メガネをかけ直して調べてくれた。小川と鷹知は、そのノートを食い入るように見つめた。最初に、岸本の名前が見つかり、残りの三人の名前もすべて見つかった。佐久間クリニックの患者であることも、記されている。 「まあ、しかし、どうでしょう。こんなの関係ないんじゃないですか?」中野は鼻から息を漏らして言った。皮肉のつもりだろう。  二人は丁寧に礼を言い、名刺を手渡してから、店を出た。西の空がオレンジ色に染まっていた。駅の方へ歩きながら、小川はそれとなく、今からどうするのか、と鷹知にきいてみた。 「小川さんは?」彼がきき返す。 「いえ、特には……。事務所へ戻って、真鍋君がいたら、話をするくらいかしら。椙田さんはいないし」 「椙田さん、何て言っている? 今回の事件について」 「いえ、なにも……。阿部さんのことは、びっくりしたみたいだったけれど」 「ちょっと、これ以上は調べようがない感じではあるなぁ」 「あ、そうそう。お金の話をきかなくちゃ」小川は思い出した。「こんなところでなんですけれど」 「お金って、ああ、調査料のこと」 「ええ」 「うん、小川さんには、それ相応の額は出せる。つまり、川戸さんに請求できる。来週末には払えると思うよ」 「私はどちらでも良いのだけれど、一応ボスには報告しないと」 「金額はあとでメールするよ」 「わかりました。ありがとう」 「じゃあ、今日はここで」鷹知は片手を上げた。  タクシーを止めたのである。どこへ行くの、とか、一緒に行こうかな、とか、頭に台詞《せりふ》を幾つか思いついたものの、大人しい女性を演じてしまう自分が支配的だった。そう感じたのも、車を見送ってしまったあとだ。溜息を一つ。  この事件は、結局解決しないのではないか、と思えた。このまま、終わってしまうような気がする。その場合、川戸は無駄な金を鷹知に支払い、そして、自分もそれで食いつなぎ、何人かの知りたくもない情報を知ってしまっただけのこと、になるのだ。  ちょっと憂鬱《ゆううつ》になりかけている。  帰ったら、元気の出る音楽を聴こう、と小川は思った。 [#改ページ] 第2章 不連続な繰り返し [#ここから5字下げ] 説明のつけようがないこのできごと、かつての経験を引っくりかえしてしまったこのできごとは、その昔バビロンの王城にあらわれて壁面《へきめん》に王の運命を記したといわれる指のように、わたしに対する審判《しんぱん》の判決文を綴《つづ》っているように思われたのであった。 [#ここで字下げ終わり]      1  小川令子の予測を裏切って、事件は急展開を迎える。それは、佐久間クリニックと被害者らの関係についての情報が、鷹知祐一朗によって警察に伝えられるよりも一日早かった。彼は月曜日に知り合いの刑事に会う約束をして、そのときに今回の一連の事件の被害者に関連性が認められることを話すつもりだった。しかし、事件は日曜日に、別の方面から起こったのである。  小川令子は、日曜日は自宅にいた。午前中に一度、食料品の買いものに近所まで出かけただけで、午後は部屋の掃除をしながら音楽を聴いていた。普通ならば、音楽を聴きながら部屋の掃除をするのであるが、彼女の場合は明らかに逆だ。いつものCDに、いつものアンプ、いつものスピーカであるけれど、通販で取り寄せた真空管を差し替えての試聴だった。まだ、球自体が慣れていないので、評価するには早いが、それでも違いは顕著で、大いに気分が良くなった。こういうときは、心も身も軽く、掃除も捗《はかど》る。外が暗くなって、カーテンを閉めた頃、鷹知祐一朗から電話がかかってきた。 「あ、鷹知だけど、あの、小川さん?」 「はい」 「大変なことになった」 「え、どうしたの?」 「中野さんが殺された」 「中野さん? えっと……」誰のことか一瞬わからなかった。しかし、すぐに思い出した。「え? 薬局の?」 「うん、そう。夕方のニュースでやっていた。今日のお昼頃だったらしい」 「殺されたって、誰に?」 「いや、犯人は捕まっていないみたいだ」 「お店で?」 「今から警察へ行ってくるよ」 「私も行った方が良いかな」 「いや……、僕だけの方が良いと思う。もともと、明日、刑事に会う予定だったんだ」 「わかった」 「とにかく、知らせておこうと思って」 「ありがとう。あの、なにかできることはない?」 「いや、また連絡するよ」 「佐久間先生には?」 「電話をした。びっくりされている」 「会って、話をきいてきましょうか?」 「いや、慌てて動かない方が良い。まず、警察にこちらの立場を理解してもらわないと」 「そうね。うん」 「また、電話する」  電話を置いてまず時計を見た。次にテレビをつける。ニュースを探して、チャンネルを変える。同時に、テーブルの上にあったパソコンを開いて、こちらもニュースを検索する。  テレビのニュースは全然違う話題ばかりだった。インターネットではすぐに記事を発見した。被害者の名前、年齢、そして、場所などが書かれていた。中野薬局の二階が、中野孝司の住居だったようだ。日曜日に訪ねてきた親戚の者が、死亡している中野を発見した。包丁のようなもので刺されていた。凶器は現場には残されていない。部屋の中も、また一階の店も、荒らされた様子はなかった。また、店の戸は施錠されていなかった、とある。  いても立ってもいられなくなったので、しかたなく、真鍋に電話をかけることにした。 「真鍋君、ニュース見てない?」 「いいえ、見てませんけど」 「あのね、今日、中野薬局の中野さんが殺されたの」 「えっと、もしかして、昨日、小川さんが行かれたところですか?」 「そうそう。今さっき、鷹知さんから電話がかかってきて、私も、ニュースを見ているところ」  鷹知と二人で、佐久間クリニックと中野薬局を訪ねたことは、昨日の夜事務所に戻ってから、真鍋に詳しく話してあった。珍しく遅くまで彼が残っていたからだ。 「へえ。でも、どういうことでしょうね」 「さあ、どういうことだと思う?」 「そんなこと、僕にはわかりませんよ。もしわかったら、僕が犯人だと思います」  二秒ほど考えて、小川はその可笑しさがようやくわかった。 「君、もうご飯食べた?」 「え? いえ、まだですけど」 「一緒に食べない? ちょっと話がしたくなっちゃった」 「ただで食べられるのなら、どこへでも参上しますけど」 「あ、それじゃあ、私の手料理とかは?」 「うわぁ、本当ですか!」 「凄いテンション上がったね」 「それはいいですねぇ。それが一番いいと思います」 「えっと、待てよ、材料があったかな」冷蔵庫の中のものを思い出した。今日買いものにいったばかりではある。「たぶん、なんとかなると思うわ。私の家、どこだかわかる?」 「だいたいしかわかりません」  だいたいどのあたりだという話はしたことがあった。最寄りの駅と、どちらへ出るのかを教えた。 「三十分くらいで行けると思います」 「近くで電話して」 「了解。手ぶらで行きますよ」 「なんか持ってこれるものがある?」 「醤油《しょうゆ》くらいなら」 「醤油かぁ、いや、それは間に合ってる」  炊飯器の準備をしてスイッチを入れてから、ふと思いつき、今度は椙田泰男に電話をかけることにした。本来なら、真鍋よりも椙田の方がさきではないのか、と自問した。そうだ、夕食に誘うのだって、椙田ではないか、と自分に言って聞かせたのだが、どうも、その勇気はまだない。どうせ駄目だと思っていたが、電話があっさり繋がった。つい最近、彼の携帯電話の番号を教えてもらえたばかりである。ようやく部下として信頼された、ということだろうか、とそのときは嬉しかった。 「あ、小川です。日曜日に申し訳ありません」 「何? どうかした?」椙田は眠そうな声だった。 「中野薬局の主人が殺されました」 「誰、それ」 「昨日会ったばかりでした。あの……」  昨日のことは椙田にはまだ報告していなかったので、掻《か》い摘《つま》んで説明をする。まず、阿部雪枝に会ったこと。それから、四人の被害者がいずれも佐久間クリニックに通っており、中野薬局で薬を購入していること。どちらかの顧客情報が漏れたのか、あるいは、それを知っている人間が、電車の切り裂き魔にちがいないこと。さらに、今回の事件は、これにどう関連するのか、それについては、正直さっぱりわからない、と小川は話した。 「今から、真鍋君と、それについてはディスカッションするつもりです」 「へえ、どこで?」 「私の家です」 「おや、真鍋と、そんな関係なの?」 「いえ、初めてです、呼ぶのは。ご飯を食べさせてあげることになりました」 「それって、僕に言わなくて良くないかな」 「椙田さんもいらっしゃいますか?」  珍しく、一秒間ほど間があいた。 「ご馳走《ちそう》してくれるわけ?」 「たぶん」 「曖昧《あいまい》だね」 「はい、絶対の自信はありません」 「よし、わかった。行こう」 「え、本当ですか?」  椙田にも、だいたいの場所を教えた。住所は知っているのだ。タクシーで行くよ、と言って電話が切れた。  すぐに立ち上がって、キッチンへ直行。心臓の鼓動が速くなっていた。なんと、成り行きとはいえ、勢いとは怖ろしいものだ。料理は得意でも不得意でもない。もちろん、人のために作った経験はある。まえの仕事をしているとき、何度か大切な人のために作った。そのときはもの凄く緊張した。それに比べれば、真鍋はどうってことはない。一割くらいのボルテージだ。椙田は半分くらいは緊張する相手かもしれない。メータの針はトータルで六割の振れ。それでも、どきどきものである。  事件のことを考えなければ、と思いながらも、それどころではなくなってしまった。昨日会って、話をしてきた人間が殺されたというのに、まったく不謹慎なことだ、と自分のことを分析したものの、しかし、とりあえず、この三十分は忘れよう、と決断した。      2  真鍋がさきに電話をかけてきて、道順の説明をしてその電話を切ったら、今度は椙田から電話がかかってきた。さきにやってきたのは椙田の方だった。 「おお、良いねぇ」ドアを入るなり、椙田は満面の笑みである。 「何がです?」 「いや、言わない」 「言って下さいよ」 「真鍋は?」 「あ、もう近くまで来ています」  窓際のソファに椙田を座らせ、急いでキッチンへ戻る。パスタを茹でていたので、ひやひやものだった。それが片づいたところに、真鍋が現れた。 「わぁ、もういい匂いがしていますね。あれ? 椙田さんがいるんですか?」彼は玄関の靴を見て言った。 「え、靴でわかるの?」 「わかりますよ、いつも履いている靴じゃないですか」 「変なところ観察してるんだね」  真鍋と二人でリビングへ。 「やあ」椙田がソファで片手を上げる。「残念だったな。邪魔が入って」 「何がですか?」真鍋がそこへ行く。「もしかして、料理が二人分しかないとか?」 「そういう思考しかできんのか」 「椙田さん、よくいらっしゃっているんですか?」 「まあね」椙田がわざとらしい表情で、視線を小川に送った。 「初めてですよ」小川は言った。 「まったく、正直者め」 「咄嗟のことで、対処に迷いました」小川は正直に告白した。  真鍋は駅で新聞を買ってきていた。しかし、今日の殺人事件については、もちろんまだ記事にはなっていない。飲みものは、アルコールではビールとワイン、それ以外には、水とウーロン茶しかなかった。これらは真鍋がテーブルへ運んでくれた。まずは、乾杯だけをして、二人がテレビを見ている間に、小川はキッチンで食事の支度《したく》をした。できたものから、皿をテーブルへ運び、そのたびに、二人が大袈裟《おおげさ》に感嘆の声を上げるのが楽しかった。こんな感覚は久しぶりのことである。 「鷹知さんも、呼べば良かったですね」真鍋が言った。 「彼は駄目、警察へ行っているから」小川は答える。 「警察は、今回の事件と切り裂き魔を、まだ結びつけていないわけだね?」椙田がきいた。 「ええ、それは、たぶんそうだと思います。マスコミもまだ全然気づいているふうではありません」小川はキッチンへ戻りながら話す。「被害者と佐久間クリニックの関係に気づかないかぎり、行き着かないんじゃないでしょうか」 「そんなことないですよ」真鍋が言った。「これで、薬局の顧客リストを調べることになるでしょうから、そこで、切り裂き魔の被害者の名前を見つけるはずです」 「ああ、そうか、そうだね」小川は頷く。「でも、まだ気づいていないと思う」  ひととおり最初に出す皿が揃ったので、最後の料理を運んで、そのまま小川もテーブルに着いた。彼女だけが、床のクッションに腰を下ろしている。椙田と真鍋はソファだ。 「美味しいですね」真鍋がパスタを食べながら言った。 「社交辞令でしょう?」 「いえ、そうじゃなくて、僕、たいていのものが美味しいと感じるんです」 「ふうん」少し口を尖《とが》らせてから、小声で彼に告げる。「覚えてろよ」 「こういう家庭料理を食べるなんて、滅多にないからなあ」椙田が言う。グラスのビールがもう僅かだった。「まあしかし、こんな生活が毎日だと、きっと堕落して仕事ができなくなる」 「そんなことないと思います」小川はわざと真鍋に語りかけるように言ってから、椙田のグラスにビールを注いだ。「食べなくても堕落している人間はいますし」 「ああ、どうも。いや、自分でやるからいいよ」 「中野さんという人は、どんな人だったんですか?」真鍋が急にシリアスな話に戻した。「ニュースには、四十三歳って書いてありましたけど」 「五十歳くらいに見えた」小川は、昨日のことを思い出して話した。「独身でね、うん、真面目そうな人だった」 「もしかして、切り裂き魔とは全然関係がない事件かもしれませんね」真鍋が言う。「そちらは、単なる怨恨とか」 「警察はそう考えるかもね」椙田は言った。「とにかく、落ち度がないように捜査を進めようと思うと、どんな可能性も潰していかないといけないわけだ」 「逆に、関係があるとしたら、切り裂き魔が、中野さんを殺した、という可能性ですね」真鍋がサラダを自分の皿に取りながら話した。「小川さんが訪ねていったとき、どうでした? 中野さん、切り裂き魔の被害者に気づいていましたか?」 「どうかな、それはわからない。でも、気づいていなかったんじゃないかな。お客さんの名前なんていちいち覚えていないでしょう? それに、テレビや新聞にだって、名前は出なかったんじゃないかしら」 「全部は出ていない」椙田がまたグラスを傾《かたむ》けて言った。 「だったら、わかるわけがないですよね」小川は頷く。椙田はアルコールのペースが速そうだ。ビールが足りるかな、と小川は心配になった。「あ、椙田さん、ワインはいかがですか? というか、ビールはそんなに沢山ありません」 「いや、なくなったら、なくなったで、やめるから、大丈夫」椙田が片手を広げる。「暴れたりしないから」 「えっと、あの、リストを見て気づいたんじゃなくて」真鍋が話した。「被害者が、事件のあと中野薬局へ行ったかもしれないじゃないですか。だって、クリニックへは行っていたわけでしょう?」 「そうか、そうだね」小川は頷いた。真鍋の言うとおりである。「そこで、被害者の人が、事件の話を中野さんにした可能性があるってことね?」 「そうです。どれくらい顔見知りだったかによりますけど」真鍋は飲みものには手をつけず、ひたすら食べているようだ。「これ、最後の一本、食べていいですか?」残っていたソーセージを箸《はし》で示す。 「どうぞどうぞ」小川は言う。 「今の話は、被害者に当たれば、わかることだ」椙田が言う。 「もし、中野さんが、それを知っていたとすると、どうなる?」小川は真鍋に尋ねた。 「中野さんは、そこから、ある方向へ考えるわけです」真鍋はソーセージを口に入れる。「つまり、そこから、浮かび上がってくる人物がいた。四人の被害者に恨みを持っている人間を、中野さんは知っていたのです」 「なるほど」椙田が頷く。「そこで、そいつを呼び出して、きき質《ただ》そうとした、あるいは、強請《ゆす》ろうとした。しかし、相手の方が上手《うわて》で、あっさりと口を封じられてしまった、というわけか」 「そうですそうです。口を封じたなんて、クラシックな言い回しですね」真鍋が嬉しそうな顔をする。「ガムテープを貼ったみたいな感じがしますけど」 「もしかして、私たちが行ったことで、中野さんは気づいたのかしら」 「その可能性もありますね」真鍋が頷いた。 「いやだ、そうなると、責任を感じちゃうなあ。可哀相《かわいそう》。なにも、殺されなくても」 「うん、僕もそう思う」椙田が言った。「四人を殺したわけじゃない。ちょっと悪戯をしただけのつもりだ。服を切ったら、たまたま軽傷を負わせてしまった、くらいの感じだろう。それを咎《とが》められたからといって、殺してしまうかな」 「でも、そういう切れやすい人って、いるんじゃないですか」真鍋が軽く言った。「世の中、けっこういろいろな人がいるわけですから」 「なんか、君が一番年寄りみたいだね」小川は少し可笑しかった。「佐久間先生に、事件のあとに薬を処方したか、という質問をした方が良いですね。忘れないように、どこかにメモをしておこう」彼女は立ち上がって、キャビネットにあるメモ用紙のところへ行く。 「鷹知さんと二人で行くように」椙田が言った。 「え?」彼女は振り返る。「どうしてですか?」 「いや、なんとなく、一人で行くのは危険な感じがする。なんとなくだけれど。真鍋でも良いから、連れていく」 「真鍋でも良いですよ」真鍋が横から言った。「そうか、そういえば、小川さんも三十代の女性ですからね。満員電車には乗らない方が良いかもしれませんよ。背中にカッタ・マットとか入れておく手もありますけど」 「カッタ・マット?」 「ほら、ナイフで切るとき、下に敷くやつ、あるじゃないですか」 「ああ……」 「あれをですね、躰の形に合わせて切って、背中に入れるんです」真鍋が説明した。「いちおう、背後からの攻撃にしか通用しませんけれど」 「本気で言ってるの?」 「え? ええ……、本気ですけど。そんなに高くないですよ。百円ショップでも売っています」 「馬鹿じゃないの、あんなもの入れられるわけないでしょう」 「入れられますよ。まあ、前はちょっと無理かもしれませんけど。男なら、前でも大丈夫ですね」 「信じられない人だよね、君って」 「そうか、囮作戦か」椙田が言った。「まず、佐久間クリニックの患者になる。それから、中野薬局へ薬を取りにいく。店主が死んでも、たぶん、誰か代わりをするだろうからね」 「違う薬局が担当するかもしれませんよ」真鍋が言った。 「まあ、とにかく、餌を撒いておいて、それで、小川さんが、カッタ・マットのプロテクタをつけて、満員電車に乗り込む、という筋書きだ」 「いやです」小川は言った。 「冗談だよ」椙田が笑った。 「絶対にしませんからね、そんなの」 「そんなにカッタ・マットがいやなんですか?」真鍋がきく。「まあ、汗をかいたりしたら、ちょっと気持ち悪いかもしれませんね。電車の中、暑いですから」 「そういう問題じゃなくて」小川は彼を睨みつけた。      3  鷹知祐一朗は、警視庁の会議室で刑事二人と向き合っていた。  一人は鈴木《すずき》という名の年輩の刑事で、顔見知りである。中野薬局の現場から戻ってきたばかりだった。もう一人は竹橋《たけばし》という名で、こちらは初対面である。彼は、電車の切り裂き魔の事件を担当している、と紹介があった。  鷹知は、これから話すことは公開はもちろん、記録もしないでほしい、と断ってから説明をした。自分は、ある人物の依頼を受けて電車の切り裂き魔の調査をしている。そこで四人の被害者について調べていくうちに、佐久間クリニックというカウンセリングへ行き着いた。被害に遭った女性四人ともが、そこのクライアントである。また、佐久間クリニックでは、四人に薬の処方箋を出し、これを中野薬局が取り扱ったことがわかった。実は、昨日、中野孝司に会って、記録簿で確認をしてもらったところである。鷹知は、とりあえず、自分が持っている情報を隠さずに打ち明けた。 「明日、月曜日に、鈴木さんに話すつもりでいました」鷹知はつけ加えた。「そのまえに事件が起こってしまったんです。びっくりしました」 「切り裂き魔の話だとは思わなかったよ」鈴木はそう言いながら、竹橋を見る。 「いや、今の話が本当ならば、ちょっとした情報ですね」竹橋はそう言ってから深呼吸をするように息を吐いた。「さっそく、確認をしてみますけれど」 「しかし、いったい誰だ? そんな捜査を君に依頼したのは。民鉄協会でもあるまいに」鈴木が笑いながら言った。「いくらなんでも、民間の探偵が解決できるようなヤマじゃないだろう」 「そのとおりです」鷹知は素直に頷く。 「でも、よく、そんな情報を突き止めましたね。いったい、どこからですか?」 「もちろん、被害者からです」鷹知は答える。「いろいろ聞いているうちに、幸運にも」 「被害者どうしに関連があるなんて、思いもしなかった」竹橋は言った。「通り魔だと考えていましたからね」 「そう考えさせる新手《あらて》の犯罪かもしれん」鈴木が腕組みをして言った。「それにしても、中野薬局では、いったい何があったんだ?」 「どんな感じだったんでしょうか? 犯人の目星はついているのですか?」鷹知はきいた。なんとか、少しでもきき出したいところである。「いえ、もちろん、まだ発表できる段階ではないと思いますけれど」 「うん、君を信用して話すが、くれぐれも情報の取り扱いは慎重に」鈴木は腕を解き、テーブルに躰を近づけた。 「もちろんです」鷹知も頷き、僅かに躰を前に。 「今のところ、殺人犯を特定するような物証はなにも得られていない。凶器がなかった。顔見知りによる計画的な犯行という線が強い。犯人は、あの家に、殺すつもりで訪ねてきた。一方のガイ者は、殺されるなんて疑ってもいなかった」 「現場は二階だったのですね?」鷹知は尋ねた。それは報道されていた情報の一つだ。 「二階に上げたのは、内密の話があったからだろうな」鈴木は頷いた。「それとも、ほかの者に見られたくなかったからか」 「時刻は?」 「お昼頃だ。店は開いていた。そのときに客でも来たら、どうするつもりだったんだろう。大胆なのか、それとも、なにも考えていないのか、よくわからんが」 「滅多に客なんて来ないことを知っていたんでしょう」鷹知は言った。「彼は独り者ですよね?」 「見つけたのは妹だ。週末には、だいたい顔を出していたらしい。結婚して、隣町に住んでいる」 「即死ですか?」 「それに近い。胸の辺り。正面からだ」 「正面から? 一箇所ですか?」 「一箇所」 「凶器は、包丁ですか?」 「たぶん。血が飛んだ。犯人の衣服にもついたはずだ。階段まで、それらしい血痕が残っている。あるいは、着替えを用意してきたのかもしれない」 「慣れている感じですか?」 「わからん。ただ、よほど、きもが据わっている奴だ」 「切り裂き魔との関連はありませんか?」 「いや、ないね」鈴木は答える。「まあ、まだまだこれから、いろいろ出てくると思うがね。全部、今、必死になって調べているところだよ」 「たとえば、被害者の衣服が切り裂かれていませんでしたか?」鷹知はきいてみた。 「いや、そんなことはない」  鷹知は、佐久間医師のことで、念を押しておくことにした。つまり、クライアントの情報を公開することは、職業倫理に反するので、これまで黙ってきた。しかし、四人も怪我人が出たことで、警察に届ける決心をしたのだ。これは、今回の中野薬局の事件よりもまえの話である。そこが重要だった。 「僕のほかにも証人がいます」鷹知はつけ加えた。 「誰だね?」 「椙田事務所の小川さんです」彼は答える。「彼女と二人で、佐久間医師の話を聞きました」 「ああ、あの子か」鈴木が苦笑する。「なんだね、君と組むことになったのか?」 「いえ、今回、たまたまです」 「まあ、今後は、警察に任せておきなさい。殺人事件になったんだ、こちらも力を入れざるをえない」 「ええ、よろしくお願いします。ただ、僕も、一応仕事で受けているので、切り裂き魔の方は、もう少し調査を続けたいと思います。もちろん、わかったことは、刑事さんにできるかぎりお伝えしますよ」鷹知は竹橋を見て言った。      4  翌日の月曜日の午後、鷹知と小川は、徳山喜美子《とくやまきみこ》と会った。電車の切り裂き魔事件の最初の被害者である。彼女の勤務先は旅行会社で、その近くの喫茶店で待ち合わせた。背は小川よりも高く、少々痩せすぎなくらいの体格だった。彼女が事件に遭ったのはもう二ヵ月以上まえのことである。当然ながら、最初に中野薬局の話が出た。 「びっくりしました。あそこに行ったことがあるんです」徳山は眉を寄せ、いかにも困ったという表情で言った。「あの、あそこのご主人ですよね? 殺されたの」 「行かれたのは、いつ頃のことですか?」鷹知が質問をする。 「えっと、一番最近は、二週間くらいまえだったでしょうか」 「何度か行かれたんですね?」 「ええ、あの近くのお医者様にかかっているんです。それで、お薬をあそこでいただくので」 「どこか、お悪いのですか?」 「私、ちょっと鬱《うつ》になるときがあるんです。気分が沈んで、躰が重くなるというのか、仕事も、ほかのことも、なにもかもできなくなってしまうんです」 「そうですか」鷹知は簡単に頷いた。「えっと、電車の事件のことで、おききしたいんですけれど、あれは、徳山さんが最初だったんですよね。怪我の方は、もうよろしいのですか?」 「はい、すっかり、もう。私の場合、そんなに酷い怪我ではなくて。ですから、あのときも、警察の人にちょっと事情をお話ししたくらいだったんです。二人めの方が、えっと、二週間後くらいに襲われて、それからですよ、刑事さんがわざわざいらっしゃったのは」 「最初のときは、まさか連続で起こるなんて思っていなかったんですね」鷹知は話を合わせる。 「ええ、ですから、私が最初ではなくて、私のまえにも、どなたかいたのかもしれません。怪我をしなければ、気がつかないかもしれませんし。単なる悪戯とか、それとも、そう、どこかに引っかけて破れたのかもしれないって、わからないままだったりするわけですから」 「徳山さんの場合は、そのとき、その場で、すぐ気づかれたんですね?」 「はい。知らない男の方が、血が出ていますよって、教えて下さったんです。私も、なんか少し痛いなと気にはなっていたんですけど。この辺です」彼女は腕を背中に回した。肩よりもずっと低い位置のようだ。「傷は、全然浅くて、絆創膏《ばんそうこう》を貼るだけでも良かったくらいです。救急車も来たんですけど、私、大丈夫ですって、断ったんですよ。駅員さんの部屋で消毒とか、簡単な手当をしてもらいました。そこへ警察の方が来て……」 「ニュースになりましたよね」 「そうなんです。びっくりしちゃいました。こんなことでニュースになるなんて。しかも名前もばっちり出てしまって。恥ずかしかったですよ、もう」 「やっぱり、珍しかったのと、それから、そう、身近だったから、誰もが遭うかもしれない、という不安感を抱かせる、そこらあたりがマスコミに受けたんでしょうね」鷹知は言った。  的確な分析だと小川は横で聞いていて思った。そう、今回の事件は、ある意味で、盲点をついた大胆な犯行といえるだろう。人目が多い場所なのだから、普通に考えれば危険すぎるのだが。 「なにか、その後、思い出されたことはありませんか?」鷹知は尋ねた。今日一番の重要な質問である。 「いえ、もう思い出したくありません。あれ以来、混んでいる電車に乗るのが恐くなってしまって。通勤時間をずらしているくらいです」 「匂いはしませんでしたか?」小川は初めて尋ねた。 「匂い? そのときに?」徳山は目を丸くした。「さあ、どうだったかな。そんなこと覚えていません」 「二人めの被害者が出たときは、どう思われました?」鷹知が質問をする。「ニュースで知られたわけですか?」 「いえ、違います。警察の人が訪ねてきて、そこでやっと知ったんです。また同じようなことが起こったらしいって」 「被害者の名前はお聞きになりましたか?」 「いいえ」 「今は、ご存じですか?」 「いいえ、知りません」彼女は小刻みに首を横にふった。 「三人の方、どなたも、ですか?」 「はい。女性とは聞いてますけれど。どこの人かも。あ、路線は違うみたいですね。私のときとは」 「その点は、どう思われました?」 「うーん、どうって、もう、なんていうか、とにかく腹立たしいの一言ですよ。そりゃあ。なんとか、早く捕まえてもらいたいです」 「どんな人を想像していますか? 犯人像として」 「いえ、全然」徳山は首をふった。「なにもイメージできません。周りにどんな人がいたかも、一人だって顔は思い出せませんよ。そんなの見ていませんし。私、音楽を聴いていましたから、イヤフォンをして」 「血が出ているのを、男の人が教えてくれたって、おっしゃいましたね」 「あ、はい。そのとき、イヤフォンを、片方外しました。えっと、肩を叩かれて、振り返って顔を見て、何を言っているのか聞こえなかったから」 「その男の人は、どんな人ですか? 警察には話しましたか?」 「メガネをかけていて、四十代くらいかな。普通のスーツを着た人でした。あ、折り畳んだ新聞を持っていましたね。鞄も持っていたかな」 「その人とは、そこで別れて、それっきりなんですね?」 「そうです」 「もう一度会ったら、この人だってわかりますか?」 「いやあ、どうかな。わからないかもしれません」 「同じ駅で降りたわけですから、ときどきは見かける顔だということは?」 「でも、いえ、そんなのわかりませんよ。私は乗り換えだっただけですし。そんな、電車に乗っているとき、じっくり人の顔って、見てませんよね」 「事件のことは、どなたかにお話しになりましたか?」鷹知は別の質問をした。 「え? それは、もう、沢山の人に話しましたけど」 「職場でですか?」 「ええ、職場でも、それから、家族にも、もちろん」 「そのお医者様でも、話しましたか?」 「は?」 「中野薬局のそばの」 「ああ、はい、ええ、そうです。話しました。でも、それが、なにか?」 「では、どなたかから、ほかの被害者の話を聞かれましたか?」 「三人めのときには、もう、テレビでもいろいろ話題になっていましたから、それで、たしかに、そういう話は、みんなしていましたけど。そういうことですか?」 「ほかの被害者と知り合いだ、というような話です」 「いえ、そんな話は聞いていません」 「もちろん、ご自身も、お知り合いはいない、わけですね?」 「ええ。いえ、でも、しっかり確かめてはいません。もしかしたら、小学校が一緒だとか、知り合いかもしれませんけれど」徳山は肩を竦《すく》めた。「今はなにもわかりません」  なかなか頭の切れる女性だな、というのが彼女に対する小川の印象だった。      5  徳山喜美子と別れ、小川と鷹知は駅まで歩いた。 「あと、会っていないのは、二人めの人」小川は言った。 「うん、えっと前畑《まえはた》さん。電話では幾度か話をした。いつも家族の人がまず出る。お母さんだね、きっと。家にいるみたいだ。勤めているんじゃなくて。いや、わからない。休んでいるのかもしれない」 「夜の仕事かもしれない」 「いや、電話を夜にかけても、いた。まだ、会ってはもらえない。もう一度、お願いしてみるよ」 「なんか、地道な仕事ねぇ。こんなことしていて、成果が得られるのかしら」 「それはわからない。でも、佐久間クリニックを突き止めただけでも、もの凄い発見というか、進展だったと思うよ。あんな飛躍的なことって、滅多にあるもんじゃない」 「だけど、それも、あとは警察任せなんでしょう?」 「まあね。探偵なんてそんなもんだよ。警察には、とにかく頭を下げて、仲良くやっていかないと」 「今日はこれでお終《しま》い?」小川はきいた。時刻は四時半だった。 「ちょっと早いかもしれないけれど」鷹知も時計を見た。「徳山さんが乗った電車に一度乗ってみようと思っている」 「なにか、わかる? そんなことをして」 「どんな人間が乗っているのかは、だいたいわかる」 「そんなの、沢山いるだけでしょう?」小川は笑った。 「小川さんは事務所へ帰っていいよ。僕だけで、ちょっと見てくる」 「いえ、行きます」小川は即答した。「プロテクタはつけてこなかったけれど」 「プロテクタ?」 「あ、いえ……」小川は自分で小さく吹き出した。そうか、昨夜は鷹知はいなかったのだ。  まだラッシュには時間が早い。それでも、電車は相当混雑していた。乗り込むまえに、既にドアの近くまで人がいっぱいだったが、そこへ大勢が躰を押し込むようにして乗った。鷹知と小川は同じドアから乗ったのだが、すぐに離れてしまった。小川はシートに挟まれたスペースへ移動し、釣り革に掴まっている人間の間に入った。釣り革はもうすべて誰かが握っている。掴まるところはない。バッグを抱えて、倒れないように躰のバランスを取る。電車が走りだした。  当然ながら、自分の衣服や持ちものが他人に接触しない位置を確保することは不可能な状態である。ただ、力を感じるほどではまだない。もう三十分もすれば、この倍にも密度が増すのだろうか。今ならばまだ、周囲を見ることができるし、どんな人間がいるのかを観察できた。このくらいでは、気づかれないうちに人の背中をナイフで切ることは無理だろう。  徳山喜美子が降りた駅、すなわち、一連の事件の発端となった駅は、五つ先である。乗り換えがあるため、多くの乗客がそこで電車を降りるはずだ。  どんな人間がいるのか。意外に老人が多い。それから、中学生か高校生か、制服の若者が沢山いる。満員電車というと、ついビジネスマンかオフィスレディという想像をしていたけれど、こうして実際に見てみると、その部類に入りそうな人たちは半分もいない。軽装の若者も多い。コードが両耳へ繋がっている者も何人かいる。おしゃべりしている人、携帯電話をじっと見つめている人、本や新聞を持って読んでいる人、そして、座っている人の何割かは、目を瞑って眠っているように見えた。  ようやく、鷹知がどこにいるのかわかった。ドアの近くだった。降りるときに、どんなふうに人が流れるのかを観察しよう、というつもりかもしれない。次の駅が近づいてきて、電車は減速し始めた。ホームが流れていく。しだいに遅くなり停車する。そして、ドアが開いた。  注意して見ていた。この程度の混み具合でも、ドアの近辺では躰が密着しているようだ。降りた人間よりも大勢が乗り込んできた。さきほどよりも高密度になる。ドアの近辺はまったく見通せない。鷹知の姿もたちまち見えなくなった。  かなり暑い。人の熱気である。電車は加速し、アナウンスが流れる。ほとんど何をしゃべっているのかわからない。見上げて、吊り広告を見る。並んでいる男たちの躰に遮《さえぎ》られて、窓の外はほとんど見えない。電車が揺れて、前の男性の背中に彼女の頭が当たった。それでも、こちらを振り向かなかった。躰になにかが触れることなど、ここでは気にしていられない。ドアの方へ移動してみようか、と考える。しかし、今はとても動けそうにない。今度の駅で降りる振りをして移動してみよう。  倒れないようにバランスを取っているだけで、ずいぶんな運動量だと感じた。そういえば、若い頃は長時間電車で通勤していたのだ。通勤でエネルギィを消耗する、と考えて、絶対に都心へ引っ越すべきだ、と思い切った判断をした。しかし、それが正解だった。あれから、仕事が上手くいくようになったのだ。そんなことを思い出しているうちに、次の駅へ電車は入っていく。停車するより僅かに早く、人が動き始めた。  小川はドアの方へ移動した。ドアが開く。流れのまま押し出されないように、途中で適当な場所で留まるつもりだった。ところが、後ろから押されて、結局一度は電車からホームへ出てしまった。そこでようやく、乗り込む人間の後ろにつくことができた。  降りるとき、かなりの力で背中を押された気がする。ナイフで切られていないだろうか、と気になったほどだ。降りる流れが弱まり、今度は逆流が始まる。電車の中へ、人が突入していく。小川は一番最後に乗るつもりだった。しかし、やはりどんどん後ろから人がやってきて、ドアの近くではなく、中央付近まで押しやられた。鷹知がすぐ近くになった。 「何をしているの?」鷹知が顔を下げて、小声できいてきた。 「いえ、ちょっと実験を」負け惜しみを言ってみる。  電車は動き始め、またよろめいてしまう。鷹知の躰を押す結果になった。 「あ、ごめんなさい」 「こんなもんじゃないだろうね。ピークは」鷹知が言った。  小川は頷く。電車の音で、もう声が届かないと思ったからだ。むしろ、ぎゅうぎゅう詰めの方が、倒れないから楽かもしれない。何度か経験があるが、本当に凄いときになると、両脚を曲げても、周囲の摩擦《まさつ》で躰が下に落ちないだろう、というくらいの圧力を受けるときがある。当然ながら、腕を上げたり下ろしたりも無理。下手に動かすと、それこそ痴漢だと間違えられる。そんな状態のときがある。この頃は、それでも、車両が増えたのか、ダイヤが改善されたのか、それともフレックスで集中が避けられるようになったのか、以前よりは電車の混み具合は緩和《かんわ》しているのではないか、と彼女は思った。  額《ひたい》の髪が払いたかったので、なんとか片手を持ってくる。髪を直してから、また下ろすのが一苦労だった。  そうか、いったい犯人はどんなふうにナイフを使ったのだろう?  今まで、それは考えなかった。被害者のことばかりが頭にあったせいだ。  片手にナイフを持ったつもりになって、イメージしてみた。満員のときに、片手を上げて、自分の前にいる人間の背中に切りつける。ほとんど、自分の躰が接しているのだから、危ない行為である。しかし、自分の横にいる人間に切りつけたりすれば、すぐ後ろの人間に目撃される。やはり、自分の躰で隠して行うのが一番合理的だろう。  最初からカッタナイフを手に持っていたのだろうか。ポケットから出したのか。カッタならば、刃を出し入れできる。  でも、こうして立ち止まっているときにやったのではない。さきほどのように、乗り降りのとき、押されてドアの近くで人が動くとき。近くにいる人間は、みんなドアの方を見ているだろう。可能だろうか?  たとえば……。  倒れそうになって、前の人間に手をつくような動作だろうか。それならば、自然に見えるかもしれない。しかし、その動作自体が目立つ。その後ろの人間、横の人間が視線を向けるはずだ。  もしかして、なにか別の方法を使ったのではないか?  たとえば?  たとえば……、そう、道具だ。ナイフを手に持っていたら、いくらなんでも、人の目に触れる可能性が高い。ナイフは見えなくても、手の動きが目立つ。他人の背中を擦るような行為に見えるのではないか。  考えているうちに、また駅に到着した。ここではあまり人の乗り降りがなかった。すぐにドアが閉まって、また発車する。 「ナイフで切るのって、考えてみたら、けっこう難しいんじゃないかしら」小川は鷹知に言った。 「え?」鷹知が顔を少し傾けた。よく聞こえなかったようだ。  物騒《ぶっそう》な話なので、周りに聞こえないように小声で囁《ささや》いたためである。電車はまたごうごうと唸《うな》って速度を増したため、会話は諦《あきら》めた。  道具か……、道具、道具、どんな道具だったのだろう。  そうか、カッタナイフだなんて、どうして決めつけていたのだろう。全然違うものかもしれない。  たとえば?  うーん、しかし、剃刀《かみそり》みたいに、刃だけを持っていたら、自分の手を切ってしまいそうだ。いやいや、手で持っていたのではないのかもしれない。そうか、なにかに刃を取りつけておけば良い。  たとえば……。  そうだ、たとえば、荷物に見せかけた、なにか。長いものの先に刃を付けて……、それをしかし、振り回すようなスペースはない。長いものって、何だろう。  たとえば、たとえば……。  弓道の弓とか、剣道の竹刀《しない》とか、あるいは、そうだ、図面を丸めて入れておく筒とか、ああ、楽器なんかのケースでもありそうだ。とにかく、そういった長いものの先に刃をつけて、自分の手を近づけないで、できないだろうか。  かえって、難しいような気がする。駄目だな。  電車が揺れて、倒れそうになった。足を一歩前に出す。また鷹知の胸にぶつかりそうになった。  見上げると、鷹知もこちらを見ている。目が合った。接近しているな、と思う。電車の中なのだから、これはしかたがない。しかたがない、しかたがない。否、べつにしかたがなくはない。逆ではないだろうか。何を考えているのか……。  そうそう、道具を使う方法である。  電車は減速し、プラットホームが窓の外を流れている。人の隙間から、なんとなくわかった。  停車。ドアが開いた。降りる人が数人、周囲の人を押し分けて、その隙間を無理に移動してドアから出ていった。一瞬だけ、空間に余裕を感じたが、また乗り込んでくる人たちで、同じような状態に戻った。ドアが閉まる。  背中になにかが当たった。  思わず、躰を前に避ける。鷹知にぶつかった。  振り返る。  向こう向きに立っている男が背負っているバッグのようだ。それが小川の背中に当たったのである。バッグに固いものが入っていたのか。 「どうしたの?」鷹知がきいた。顔が近いので耳もとで囁くような感じになった。 「切られていない?」小川は躰を捻って、鷹知に背中を見せる。  鷹知は顔を横へ移動させ、彼女の背中を上から覗き込んだ。そして、笑った顔で首を小さく横にふる。  なるほど、と彼女は頷いた。  そうか、バッグだ。  バッグにナイフを仕込んでおく手がある。べつに長いものである必要などない。狙う人間の後ろにつき、自分と被害者の間にバッグを挟む。バッグの中から、ナイフが突き出ている。そして、その刃がスライドするような機構があれば良い。簡単ではないか。これならば、誰にも見られない。バッグ自体がナイフを隠しているし、手も大きく動かさなくて良い。  もちろん、バッグとは限らないが、なにか、仕掛けのあるものを使ったのだろう。大勢がいるところで、大胆な行動に出た、それは盲点をついたものだと思わせる。しかし、絶対に見つからない手法を綿密に計算し、小道具を用意したにちがいない。  電車が速度を落としている。駅が近づいてきたようだ。周囲の人間が動こうとしている。大勢が降りる駅なのだ。ホームが近づいてきて、さらに減速。ドアの方へ向き直る人、少しでも進路の前に出ようとする人、あっという間に、躰が他人と密着し、小川も一メートル近く移動。鷹知とは離れてしまった。  電車が止まる。ドアが開く。少し遅れて、群衆が流れ出る。後ろから押され、前にもぶつかり、横からも割り込まれ、足許に注意して、ホームへ降り立った。そこで、さらに流れは速くなり、走りだす者も多い。階段の方へ大きな流れが向かう。その流れを横切る形で、ホームの中央にあるベンチの近くへ小川は移動した。ベンチの向こうへも流れは溢れ、そこだけが中州《なかす》のように止まって見えた。鷹知の顔を発見。背が高いから見えたのだ。片手を挙げて、彼にこちらを見つけてもらう。鷹知が近くへやってきた頃には、ようやく人間の本流は階段の方へ遠ざかっていた。電車はドアを閉め、モータ音を唸らせながら動き出した。  しばらくホームの様子を眺めている。特に、人の流れ、どんな人物がいるのか、などを観察した。やはり、ビジネスマンというよりは、学生っぽい若者、制服の高校生、中学生の割合がかなり高い。クラブ活動なのか、揃いのスポーツウェアの集団もいる。子供を連れた女性もいる。老人も多い。ビジネスマンが多くなるのは、もっと遅い時刻なのだろうか。 「なにか、思いついた?」鷹知がきいた。 「思いついた」小川は即答する。 「へえ、じゃあ、乗った甲斐があったね」 「もう少し検討して、整理してから話すことにするわ」小川は微笑んだ。実は、鷹知に話すまえに、真鍋に相談した方が良いのでは、と考えたのだ。どうして、そんなふうに思ったのかは自分でもわからない。 「じゃあ、戻ろうか」鷹知は簡単に引き下がり、ホームの反対側へ移動した。  このあと入っている約束があるためだ。小川もそれを知っていたので、時計を見た。そろそろ向かえば、ちょうど良い時刻になるだろう。      6  小川と鷹知が中野薬局に到着したのは、五時半だった。鷹知が鈴木刑事と約束をした時刻にはまだ三十分もある。電車で来たのだが、思ったよりも早かった。ゆっくり周囲の街を歩いて、時間を潰そうか、と鷹知と話していたところ、薬局の方から歩いてくる鈴木刑事に出会った。 「ああ、どうも、こんにちは」鷹知は頭を下げる。 「あれ、早いな」鈴木は時計を見た。「ちょっと、そこらで休憩しようと思っていたところなんだけれど……、どこかで、コーヒーでもどう?」 「そうですね」鷹知は振り返って、道路の反対側を見た。「あそこに喫茶店があります」 「小川さん、久しぶり」鈴木が言った。 「嬉しい。覚えていて下さったんですね」小川は笑顔をつくる。完全に社交モードである。 「そりゃ、覚えていますよ」  信号で待たされたあと、横断歩道を渡る。その喫茶店は間口《まぐち》は狭いが奥へ深く、テーブルは半分以上空いていた。三人は、ほかの客からは離れているテーブルを選んだ。小川と鷹知は並んでシートに座り、鈴木と向き合った。店員が水とおしぼりを持ってくる。三人とも、コーヒーを注文した。 「今日も、切り裂き魔の調査ですか?」鈴木が、おしぼりで顔を拭《ぬぐ》いながらきいた。 「はい。被害者の方にお話を伺ってきたところです」鷹知は話す。「最初の被害者です。中野薬局の事件の話も出ましたよ」 「え、どんな?」急に鈴木が表情を変え、身を乗り出すようなポーズで止まった。 「いえ、ニュースで見た、というだけです。少しまえに、佐久間クリニックに来て、中野薬局へも寄った。二週間くらいまえだった、と話していました」鷹知は説明する。 「もちろん、それが切り裂き魔と関係している、というふうには捉えていないと思いますが」 「佐久間先生にも、昨日すぐに会って話を聞いた。不思議だなあ」鈴木は首を回すように動かして、骨を鳴らした。「今回の殺人と関係があるのか、それとも全然関係がないのか」 「どうですか? 捜査の状況は。もう、犯人の見当がついているのではありませんか?」鷹知がきいた。 「いや、それがね、うん、けっこう、難しそうだな、という感じに思えてきた」鈴木は舌を鳴らした。「まあ、まだわからんがね。とにかく、これだ、というような証拠はない。目撃者もいない。妹の話では、トラブルのようなこともなかったそうだ。あるいは、女性関係かな、と思ったんだが、そちらの方はまったく気配がない」 「凶器は?」 「見つからない。近所を捜索中だが、こんな町中だからね。捨てたりしないだろう。川も遠いし」 「持って逃げたってことですか?」 「そう」 「歩いてですか?」 「タクシーかな」鈴木は言う。  コーヒーが運ばれてきたので、会話が中断する。三人とも、黙って、カップに口をつけた。鈴木は煙草を取り出して、火をつけた。 「あ、煙草、良かったかな?」煙を吐いてから、彼は小川にきいた。 「全然かまいません」小川は微笑む。 「近頃、厳しくてね」鈴木は苦笑した。そして、店内を見回す。「ここ、吸えるんだろうなぁ」  テーブルに灰皿があったので、禁煙ではないだろう、と小川は思った。 「どんな印象ですか?」小川は初めて質問をした。自分で言っておいて、抽象的だな、と感じたが、まずはそれをききたかったのである。 「度胸の据わったやり方なんですよ」鈴木は答える。そして、自分でも確かめるように頷いた。「素人《しろうと》じゃないかもしれない。なにしろ一撃だからね。武道の心得があるのか、うーん、なんていうのか、あれは怖々《こわごわ》ではない、争ってもいない、思いっきり、突進して、ずぶっと、刺した」片手で、軽くジェスチャ。それから、口をへの字に歪《ゆが》めた。「うん、なんだろう、ちょっと普通じゃない感じですね」 「殺人は、そもそも普通じゃないと思いますけれど」小川は言う。 「いや、普通ですよ」鈴木は首をふる。「たいていの殺人は、ごく普通だ。カッと頭に血が上って、でも、やったあと後悔するか、やる直前に躊躇《ちゅうちょ》する。相手だって防御する。刃物を持っていれば、それの取り合いになる。犯人自身が怪我をすることも多い。そういう様子が、たいていの現場には残るものなんです。ピストルで、離れた位置から撃つのとはわけが違う。刃物で人を刺し殺すっていうのは、そんなに簡単なものじゃない」 「そうでしょうね」鷹知は頷いた。  小川は気分が悪くなっていた。頭でイメージしてしまったものを遠ざけたい欲求にかられる。血と傷、そして痛み、憎しみ合った人間の顔と顔、その呼吸、そんなものを想像してしまう。 「一人ですか?」鷹知が尋ねた。  この質問には、小川は少し驚いた。そうか、そういう疑問を持たなければならないのか、と。同時に、電車の切り裂き魔は、はたして一人だろうか、とも考える。 「わからない」鈴木は簡単に答えた。片手にカップを持ったままだ。「複数だったかもしれない。その場合、一階で一人が見張りをしていた可能性もあるね」 「物取りではないのですね?」 「違う。店の金にも手がつけられていない」 「あの……」小川は質問をする決心をした。「ナイフを握って刺したのですか?」 「は? どういうこと?」鈴木がきき返す。 「つまり、ナイフの柄を手で握って、突進していったのですか?」 「そうじゃないかと考えていますよ。それ以外に、どんな手がありますか? 投げたくらいでは無理だ。それに、引き抜いているわけですからね」 「いえ、たとえばですね。長い棒みたいなものの先にナイフを固定して、それで、刺したとか」 「そんなこと、どうしてするんですか?」鈴木は笑顔になる。可笑しかったのだろう。「槍か、長刀《なぎなた》みたいなものを想像しているとか?」 「あ、ええ、そうです」 「そんなものを持って、町中を歩いてきたら、目立つでしょうな。うん、ああ、それに、被害者だって、不審に思う。もっと抵抗したと思います。油断をしているところを一撃で倒すならば、凶器は直前まで隠しておいた方が良い」 「うまく言えないんですが、凶器だとは思えないようなものに、仕込んであるんです、ナイフが」小川は考えながら話す。明らかに自分のアイデアがまとまっていない、と感じながら。「抽象的ですみません。でも、だから近づいていけた。中野さんは油断したままだった。そこで、その仕組みが作動したんです」 「仕組みが作動した? うん、面白い発想ですね」鈴木は微笑んだままの表情だった。「どんなものなのか、私には想像もつきませんが」 「むしろ、そういった仕掛けに頼る方が不確かで、危険な気もするけれどね」鷹知が横から言った。「どんなものかにもよるけれど」 「いえ……」小川は片手を広げた。引き下がった方が良さそうだ、と感じる。「そんなに真剣に考えないで下さい。けっこうです、もう」  その後も、現場の様子について幾つか聞くことができたものの、重要と思われる情報はなかった。鷹知は現場を見せてもらえないか、と切り出したが、それは鈴木に笑って断られた。今はとてもそれどころではない、という言葉とともに。  二十分ほどで話は終わり、鈴木は現場へ戻っていった。      7  鷹知とは地下鉄で別れた。小川は真鍋にメールを送った。今から事務所へ戻ります、と。すると、すぐに返事が来て、事務所にまだ彼がいることがわかった。  事務所に戻ったのは六時半。すっかり日が暮れて、照明が白く灯っていた。  ドアを開けて、小川は事務所に入る。椙田はいない。真鍋が応接セットのところで、リラックスした格好で雑誌を膝の上に広げて読んでいた。 「お疲れさまです」 「ああ、今日は、本当に疲れた」小川はバッグを自分のデスクにのせる。「電話は?」 「ありません。誰も来ませんし」 「こういうときに、もう一つ仕事があるくらいじゃないと、駄目だよね」 「そういうもんですか?」 「うん、繁盛《はんじょう》するっていうのは、そういう状態だと思う」 「繁盛なんかしないと思いますよ。宣伝もしていませんし」 「もっと、積極的に広報活動をした方が良いかもね」 「椙田さん、しないでしょうね、そういうのは」真鍋がシンクの方へ歩いていく。「嫌いそうじゃないですか」 「うん、そうだね」 「名前を変えたのは、どうしてなんですか?」彼はお茶を出そうとしているようだ。 「ああ、事務所の?」 「SYアート&リサーチ」真鍋が言った。 「うん、なんかねぇ、そう、椙田というのを出したくなかったみたい」小川は、先月のことを思い出して話した。「急だったよね」 「こそこそしているところがあるでしょう? 椙田さん」 「うん、あるある。でも、そう見えるだけかもしれない」 「やっぱり、そう見えますか?」 「うんと、W大でね、凄い美人がいてさ、その人が近くに来たら、椙田さん、あっという間に隠れちゃって」 「へえ。なんかあったんですね」 「恨まれてるんだよ、きっと」 「罪深い人ですね」真鍋が言った。 「それ、なんか、表現間違ってない?」 「あれ? 隅《すみ》に置けない人、かな? 胡散《うさん》臭い人?」湯呑みを両手に持って、真鍋が近づいてくる。「それにしても、小川さんが来てから、椙田さん、ほとんど顔を出さなくなりましたよね。何をしているんでしょう?」 「外商ってことじゃないかしら」 「ガイショウですか? ああ外務大臣?」 「違う」小川はお茶に口をつける。「あのさ、えっと、満員電車に乗って気がついたんだけれど、カッタナイフで人の背中を切る方法って、真鍋君、どんなふうにイメージしてた?」 「ああ、そのことですか。そうなんですよ。手に持っていたとは思えませんよね」 「え?」真鍋の言葉に小川は驚いた。「じゃあ、どうするの?」 「さあ、まあ、僕だったら、そうですね、そういう特殊な装置を作りますね。それを自分の胸に入れておいて、前の人に躰を寄せて、こう、片手で下から……」 「ちょっとちょっと待って」小川は湯呑みを置いた。「何? 装置? どんな装置よ」 「まあ、わかりませんけれど、たとえば……」真鍋は立ち上がった。「カーテンレールみたいなものを胸に入れておいて、そこにカッタの刃が取り付けてあって、それで、こう、糸を引くとですね、さっと下へスライドするんです」 「あっぶないじゃない」 「いや、危ないですよ、そりゃ」 「いえ、自分が危なくない?」 「そんなことはないですよ。しっかりと固定されていれば、刃は前に出ているわけですから、自分は傷つきません。いくら押しても、そんなに深くは入らないから、大きな傷も負わせないでしょうし。ほら、雑誌の切り抜きをするとき、重なっている紙の一枚だけを切るカッタがあるじゃないですか。あんな感じですよ」 「で、その装置を付けたまま、逃げたわけ?」 「そうです。まあ、たとえば、荷物を、こう、抱えていれば」彼は腕を胸の前に持ってくる。「隠せるわけですから、それで駅のトイレにでも入って、ナイフを外す、と。そうすれば、もう普段どおりです」 「電車に乗るときはどうしたの? 最初から、そんなの危なくない?」 「おそらく……、最初は、刃が畳《たた》まれていた状態なのか、あるいは、キャップが付いているんだと思います。それで、上着の中に隠されているんです。電車に乗っている間に、キャップを取り、上着の前を開けたわけです」 「なるほど」小川は腕組みをして、ソファにもたれかかった。「上着のジッパを開けたんだ」 「駄目ですかね?」真鍋が顎に手を当てて、わざとらしい表情できいた。「小川さん、何に気がついたんですか?」 「え?」 「電車に乗って気がついたって言ったでしょう?」 「ああ、いえ……、私もね、その、つまり、そういうのを考えたの」 「そういうのって?」 「私は、うーん、バッグか、なにかの荷物にナイフが飛び出すような仕掛けをしておいて、その荷物を抱えるようにして、前の人に押しつけたんだと思った」 「それだと、切るのに、荷物ごと動かさないといけないでしょう?」 「そうそう、真鍋君のスライドするっていう仕掛けは、凄いね。できると思う? そんなこと」 「カーテンレールじゃ無理だと思いますけれど、それくらい、東急ハンズへ行けば、なにか使える素材が見つかるんじゃないかなぁ」真鍋は言った。「紐で引くんじゃなくて、ゴムで一気に引っ張る手もありますね。ゴムを引っ張って、伸ばした状態で引っかけてあるわけですよ。それを外すと、一気に戻りますよね。それで、ナイフの刃がレールをさっと動く。でも、ちょっとこれは無理かなって思いました。一度しかチャンスがないのもまずいし、それに音がするかもしれないし」 「そうね、手加減ができた方が確実だと思う」小川は言う。 「あ、そうですね」 「しかし、凄いなあ、胸の中に入れておくっていう発想は」 「ほら、このまえ、プロテクタの話をしましたよね、カッタ・マットの」 「してたね」 「あれで思いついたんですよ。防御だけでなくて、犯人側だって、そういう特殊な武器を使ったんじゃないか。だったら、どうするだろうって」 「よくそういうの、思いつくよね」 「まあ、芸術家ですからね、僕は」 「芸術家? ずれたこと言うなあ。君、芸術家だったの?」 「アーティストですよ」 「全然見えない」小川は吹き出した。 「だけど、そんな道具を使ったとしても、べつにそれで犯人が特定できるわけじゃありませんし」 「そう? そういう工作が得意な人間だよ」小川は指摘する。「珍しいんじゃない?」 「それくらいの工作、誰でもできますよ」 「そうかなぁ」 「小川さん、できませんか?」 「私はできるかも、それくらい。まあ、真剣にやろうと思えば、だけど」 「ほら、女の人でもできるんですから、男なら、たいていできますよ」 「それを家で作るとしたら、誰にも見られない部屋がある、ということだよね」 「そんなことよりも、佐久間クリニックの関係はどうなったんですか?」真鍋が突然話題を変えた。「中野薬局の事件とか」 「そっちも、警察から少しだけ情報をもらってきた。ほら、このまえの事件のときの刑事さん」 「鈴木さんですか?」 「そうそう、あの人にまた会ったのよ」 「へえ。なにかわかりましたか?」  小川は、覚えていることを真鍋に説明した。しかし、重要なことはなにもない、といっても良い。手掛かりらしいものはまだ見つかっていないのだ。 「あの刑事さん、人は良さそうですけど、ちょっとぼうっとしていますからね」 「怒られるよ、そんなこと言ったら」小川は笑ってしまった。そんな印象はたしかにある。 「たとえば、電車の切り裂き魔が、中野薬局の主人を殺したのだとしたら……」真鍋は言った。「つまりそれは、自分が見つかってしまう、と恐れたからでしょうね。ということは、中野さんと犯人は、顔見知りなんです」 「でもね、切り裂き魔は、殺人を犯しているわけじゃないんだよ。それを、いきなり殺すかな?」 「四人の背中を切ったのは、なにか目的があったわけですよ。その目的を達成できなくなる、と恐れたのでは?」 「たとえば、それ、どんな目的? 四人に傷を負わせることで得られるようなものって、ある?」 「全然わかりません」真鍋は首を横にふった。 「わからないなら、無責任なこと言わないでよ」 「わかることだけを話していたら、こんな議論なんて、できないんじゃないですか」 「うーん、理屈屋さんだよね、君って」小川はまた吹き出した。  真鍋は腕組みをして目を瞑った。ちょっとは考えようと思ったのだろうか。小川はお茶を飲み、溜息をついた。 「まあ、そもそも、意味がある、という考え方が間違っているのかもしれないわね」独り言のように呟いて、自分でもそれが不思議な発想だと彼女は思った。 「クリニックの患者のリストを、中野薬局で手に入れて……」真鍋が目を開いて話した。「そのうちの四人の女性に怪我をさせた、しかし、まったく恨みもないし、意図もない、単に面白そうだからやってみた、というだけですか? ありえますか? そんなこと」 「うーん、面白いからというだけだったら、なにも、そんなマイナなリストから人選しなくても良いってことね?」 「そうです。もっと大勢が知っている人を狙った方が良いですよね。あるいは、たとえば、黄色い服を着ている人を狙うとか、わかりやすい方がアピールしませんか?」 「いえ、やっぱり、中野薬局か、佐久間クリニックには、なんらかの恨みを抱いていたわけ」小川は考えながら話した。「それが主目的ではないにしても、ついでに少しそちらにも嫌がらせをしてやろうって……。被害者にはまったく無関係。だけど、そのリストから選ばれているとわかれば、自然にそちらには迷惑が及ぶでしょう?」 「及びますか?」 「そりゃあ、もし明るみに出たら、営業妨害にはなるんじゃない? そこに関わったら、電車で切られるかもしれないとなったら、みんな近づかなくなるでしょう?」 「でもですね、もしそれだったら、最初から、そこの関係者が狙われるぞ、ということを示さないと意味ないですよね。今回は、たまたま、小川さんや鷹知さんが動いたから、あそこへ行き着いたわけじゃないですか」 「そこまで、計算していたのかも」 「それは、ちょっと考えられませんよ。四人といわず、せめて、二人めか三人めで、わかるくらいのサインは残しておかないと」 「じゃあ、何だろう……。被害者たちに、クリニックには近づくな、というメッセージを送りたかったとか?」 「みんな、事件後も佐久間クリニックへ行っているんでしょう?」真鍋が指摘する。 「そうだよねぇ、全然違うなあ」小川は顔の前で両手を合わせた。「被害者の人たちは、ほかの被害者が同じクリニックに通っていることは認識していないみたいだし」 「あ……」真鍋が口を開けて、しばらく宙を見つめた。 「え、何?」 「そうかぁ、一つ可能性を思いついちゃいましたよ」 「何、何」 「今はですね、予行演習をしているんですよ」 「予行演習?」 「その自分が作ったマシンを試しているんです」 「マシンって? あ、ナイフがスライドするやつのこと?」 「ええ、そうです」 「どうして、クリニックの患者さんたちを狙ったの?」 「その人たちから、どんなふうだったか、感想が聞けるからですよ」 「えぇ? 感想って……」 「だって、そうじゃないですか。どれくらいの感じだったのか。すぐに切られたと感じたか。どれくらい痛かったのか。それとも、気づかなかったのか。そうした声を聞いて、マシンの性能を評価しようとしているんです」 「どうして、そんなことをするの? あ、ちょっと待って、その感想を聞けるのは、つまり佐久間医師ってことになるんじゃない。あの先生が犯人だってこと?」 「そうとも限りません。佐久間先生を通して、その声が聞ける人がいるのかも」 「グルってことね?」 「グル? グルってなんですか?」 「グループ」 「ああ。変な略し方しないで下さいよ」 「言わない? いえ、えっと、そんなこといいから」 「何の話でしたっけ」 「それで、マシンの評価をして、どうするわけ?」 「そりゃあ、二つしかありませんね、可能性は」真鍋は片手を前に出して、Vサインをする。 「また、可能性?」小川は笑えてきたが、必死で堪《こら》える。ついつい身を乗り出してしまった。「一つは、これから、そのマシンを使用する本番が待っている、という可能性です」 「なるほどなるほど、今までは、試運転だったわけね」 「そうです。データを得るための実験でした。だから、試験的に使ってみて、気になるところは、そのつど改善されたでしょう。より洗練したものになったはずです」 「最初から、あまり洗練されたマシンではないと、私は思うけどなあ」 「そんなことありません。軽量化とか、強度とか、いろいろ改良点はあると思いますよ」 「もう一つの可能性って?」 「本番という意味では同じかもしれませんけど、つまりですね。このマシンをどこかに納めるのです」 「納める?」 「開発して、売るわけですよ」 「ああ……、人に? 売るの?」 「そうです。受注したんです。そのために開発して、試験をしたんです」 「そうだったのぉ」 「試験結果もそれなりに説得力があるものでなければなりません。一回だけでは駄目でしょう? 四回やったら、四回とも確実に、しかも安全に作動する、それを実証してみせないと」 「安全にって……」 「使う側にとって、安全に、という意味です」 「誰が買うわけ?」 「それは、使いたい人がいるんだと思いますよ」 「うーん。ちょっと、頭痛くなってきたなぁ」 「あ、お疲れでしたか?」 「今、急に疲れたわ」 [#改ページ] 第3章 不条理な繰り返し [#ここから5字下げ]  たちまち地獄《じごく》の悪霊《あくりょう》がわたしの心に目をさまし、猛《たけ》り狂《くる》った。嬉しさのあまり小躍《こおど》りしながら、わたしは抵抗《ていこう》もしないからだを殴りつけ、殴りつけるたびごとに歓喜を味わった。ようやく疲《つか》れを覚えて来はじめると、無我夢中《むがむちゅう》の発作《ほっさ》のさなかに突然、ひやりと恐怖の戦慄がわたしの胸を貫いた。 [#ここで字下げ終わり]      1  中野薬局の事件から一週間が経過したが、新たな進展はなかった。電車の切り裂き魔もその後は現れていない。この一週間で、小川は鷹知とともに、佐久間クリニックを二度訪ね、佐久間医師と話をした。また、警視庁で鈴木刑事と一度会った。  月曜日に、切り裂き魔の二人めの被害者である前畑昌子《まえはたしょうこ》に会いにいった。鷹知が電話で数回話をして、ようやく会えることになったものだ。彼女は大学に勤務する事務員だった。  駅から歩き、大学に到着したところで電話をして、構内にある喫茶店で待ち合わせた。そびえ立つような大木が古風な建物の間に一列に並んでいる。石を敷き詰めた地面は微妙に歪《ひず》んでいるようだった。階段を下りて、半地下になったスペースに小さな喫茶店がある。時刻は午後の四時。店内は満席だった。そこで、自販機で缶コーヒーを買って、その近くのピロティのコーナで話をすることにした。レンガの壁に段が設けられ、そこに腰掛けられるようになっている。前畑昌子は、メガネをかけ、地味な服装だった。髪を頭の後ろで縛っている。お洒落《しゃれ》ではない。化粧気もない。相手の視線を避け、下を向いたまま囁くような声で話す女性だった。 「もう、なんか、あまり覚えていないんです」彼女は言った。「というか、思い出したくありません」 「お気持ちはわかります」鷹知が優しい口調で言う。普段の話し方とは発声方法が違うみたいだ。「しかし、犯人はまだ捕まっていません。犯人に辿り着けるような手掛かりがどこかにないか、と探しているのです。どんな小さなことでも、捜査の参考になります」  前畑は、やはり背中に短い傷を負っている。それは既に完治したが、その後、恐くて電車に乗ることができず、親友の車や、タクシーを利用している、と話した。 「先日、お友達と一緒に久しぶりに地下鉄に乗りました。誰にも背を向けられないから、ドアにひっついていたんですよ」前畑は、少し微笑み、それから溜息をついた。 「なんとか、大丈夫でしたけれど」 「精神的にも、ストレスが大きかったでしょうね」 「ええ……」 「どこかに、相談に行かれたりはしていませんか?」鷹知はきいた。「そういった精神的なストレスは、人に話すことで、多少ですが、楽になる事例があると聞きます」  佐久間クリニックのことをきき出そう、というつもりだろう、と小川は思った。 「はい、カウンセリングは受けています」前畑は答える。顔を上げ、横を向いて、風景を眺めるような視線を送った。次に、一瞬だけ小川を捉える。そして、すぐにまた下を向いてしまった。 「カウンセリング、というと?」鷹知がソフトに尋ねる。 「私、まえから治療を受けていたんです。そちらの……」 「そうですか。では、薬なども飲まれているのですか?」 「はい。お薬を飲まなかったら、寝られないし、気分も沈んでしまって、お仕事も手につかなくなります。いけない状況だとは思いますけれど、今はなんとか、お薬に支えられて生きているっていう感じなのかもしれません」 「では、もしかして、中野薬局の事件をご存じですか?」鷹知は尋ねた。その質問には、小川も鼓動が速くなってしまう。 「はい」前畑は上目遣いに鷹知を一度見た。「金曜日でしたか、お葬式があったのですよね」 「どうして、それをご存じなのですか?」 「本学の小森《こもり》助手が、亡くなられた中野さんの妹なのだそうです。事件以来、先週はずっと欠勤されていました。それが、木曜日に大学に一度出てこられて、私、書類をお持ちしたんです。そこで、お聞きして、びっくりしました。中野薬局へは、私も何度か行ったことがあったんです」 「あ、もしかして、小森さんという方、中野さんが亡くなっているところを発見された、という?」 「あ、いえ、発見したのは、小森先生のお姉様だと伺いました。その方が、中野さんのところへ行かれて……」  中野さん、と彼女が言ったことに、小川は気づき、鷹知の顔を一瞥した。前畑は、中野を店ではなく個人として認識しているようだ。 「あの、前畑さんが中野薬局へ行かれたのは、どういったことででしょうか? あの近所にお住まいではありませんよね」鷹知がきいた。 「そのぉ、ですから、さきほど治療を受けていると申し上げたクリニックが、その近所なのです」 「ああ、そうなんですか。中野さんとは、顔見知りだったのですか?」 「いえ、顔見知りというほどではありませんけど……」 「たとえば、ほかの場所で会っても、挨拶をされます?」 「いえ、そんな」前畑は首をふった。「別の場所だったら、たぶんその人だとわからないと思います」 「小森助手とは、いかがですか?」小川は質問をした。 「え?」 「よくお話をされるのでしょうか?」 「私がですか? あ、いえ、もちろん、名前と顔は知っていますから。大学以外で会っても、挨拶くらいはすると思います」 「大学ではよく会われるわけですね?」 「頻繁に会うようなことはありません。小森先生の方は、私の名前をご存じないと思います」 「何学部ですか?」鷹知がきいた。 「工学部です」 「工学部で女性の教員っていうのは、珍しいですね」小川は言う。 「そうですね、五人か、六人しかいらっしゃいません」 「何人のうちですか?」 「工学部ですと、助手は百人くらいでしょうか」  事件のとき、電車の中ではどんな様子だったかを尋ねた。これまでの話とほぼ同じで、痛いと気づいたのは、ドアが開いて、ホームへ押し出されたときだった。痛くても自分では見えない。通りかかった老年の女性が親切に見てくれて、服が切れていること、そして、怪我をして血が染み出ているのがわかった、という。 「なにか、その後、思い出したことはありませんか?」鷹知が尋ねた。 「もう思い出したくありません」 「匂いはいかがでしょう?」小川は尋ねた。 「匂い? 電車の中でですか?」 「申し訳ありません。変な質問ばかりで」 「いいえ、なにも覚えていません。覚えていることは、全部、警察にお話ししましたし」  話は十五分くらいで終わってしまった。前畑の話では、小森助手は今日からは出勤しているはずだという。部屋の位置を大まかに教えてもらい、二人はそちらへ向かうことにした。      2 「意外なところで意外なつながりがあるものね」小川は歩きながら話した。 「世間は狭いってことだね」鷹知は微笑んだ。「しかし、数学的に確率計算をしても、そんなに特殊なことではないそうだよ。友人に数学者がいるんで、そいつから詳しい説明を聞いたけれど、途中の理屈は全然覚えていない」 「こうして、本人に直接会って、顔を見ることが大事なんですか?」小川はきいてみた。 「え、何に?」 「つまり、探偵の仕事に」 「さあ、どうかなぁ。こんなことを続けていても、ものごとが解決するのかどうか、正直わからない。でも、少なくとも、僕の仕事は、僕に仕事を頼んだ人を納得させることなんだ。足を運んで、時間をかけて、汗を流しても、結局はわからなかった。だけど、とりあえずは、なにもしなかったよりは、努力をした分、しかたがない、という納得が得られる、というわけだね。困ること、悩むこと、その時間を請け負っているようなものだから」  小川は頷いた。そうか、仕事って結局どれも同じなのだな、と彼女も納得した。同じようなことが、まえの仕事のときにもあったのだ。あるとき、無駄だからやめましょう、と進言したところ、無駄だからやっているんだ、と叱られたことがある。それを言ったのは、彼女が尊敬する人物で、その人のために働いていた。  彼はこう言ったのだ。 「無駄なことがしたくないのなら、今すぐ死んだらいい」と。  そして、その半年後には、彼は本当に死んでしまった。もっと沢山の無駄なことを二人で一緒にしたかったのに。  一瞬で沢山のことを思い出せる。  あの人のことは、いつでも思い出せる。  彼女は、黙って歩いた。  建物の中に入った。見るからに古そうな立派な建造物である。通路は暗く、蛍光灯の弱々しい光が点々と先へ続いていた。ロビィには、上面が傾斜した標本棚が置かれ、古そうな道具類が中に並べられている。説明書きもあったが、ものを見たかぎりでは、何に使うものかさっぱりわからなかった。  通路を進み、薄暗い階段を上がった。部屋の番号を見ながら、鷹知と歩く。人の気配《けはい》はほとんどない。中庭が見えるが、樹木が接近しているため枝葉が間近に迫り、視界を遮っていた。  教えられた番号の部屋。ドアの横の壁に〈小森志津恵助手〉の表札がある。ノックをすると、小さな返事が聞こえた。鷹知がドアを開ける。 「失礼します」二人は部屋の中に入った。 「はい?」奥の窓際のデスクにいた女性が立ち上がる。パソコンのマウスに片手をまだ触れたままだった。 「あの、小森助手ですか?」 「はい、私です」 「はじめまして、私は鷹知と申します」  二人は部屋の中央に進み出る。小森も近づいてきた。鷹知はそこで名刺を手渡した。小川も自分の名刺を出してお辞儀をする。 「ある方のご依頼で、最近、電車で起こっている事件の調査をしております。お忙しいところ申し訳ありません。ほんの少しだけ、お話を伺えないでしょうか?」鷹知がジェントルな声で言った。 「はい、あまり長くは困りますけれど」 「ほんの十分程度です。どうかお願いいたします」 「わかりました。あ、どうぞ、そちらへ」小森が手招きする。  部屋の中央には大きなテーブルがあって、その周囲に丸い椅子が並んでいた。テーブルの上には、測定器らしい機械類が幾つかあり、ほかには書類か本が雑然と平積みされている。  小森志津恵《こもりしずえ》は白いシャツにジーンズ。華奢《きゃしゃ》な体格である。髪は男性のように短く、黒縁のメガネをかけていた。中野孝司に似ている部分もたしかにある。年齢は三十代の前半だろうか。しかし、ちょっと見た感じは学生に見えないこともない。 「中野薬局の事件ではありません」鷹知は最初にそれを口にした。  小森は一瞬だけ表情をフリーズしたものの、すぐに瞬きをし、小さく頷いた。 「そちらの方は、もう、その……」鷹知がきいた。 「大変でした。先週は」彼女は答えた。「まさか、あんなことになるなんて」 「警察に、何度も話をされたのでしょうね」 「ええ、そうですね」溜息とともに小森は頷いた。「まだまだ、これからなのかもしれません。いろいろ検査をしている段階のようですから。本当に、いったい何があったのか」 「我々が調べている電車の切り裂き魔なのですが、ご存じでしょうか?」 「ええ。あまり詳しくは知りませんが」 「これは、ここだけの話にしていただきたいのですが、実は、切り裂き魔の被害者の何人かが、中野薬局で薬を購入していました」 「何人か、というのは、何人ですか?」小森が質問をした。 「四人です」鷹知は答えた。 「つまり、全員ですか?」 「ええ」鷹知は頷く。  小森は、被害者が四人であることを知っていた、と小川は思う。 「それはもう偶然とはいえませんね」小森が頷いた。「それ、警察も知っていることですか?」 「おそらく知っていると思います」鷹知は頷く。 「では、もしかして、兄と切り裂き魔には、なんらかの関係があった、ということになりますか?」 「それは、わかりません。なにかご存じのことがあれば、教えていただきたいのです」 「いえ、なにも知りません」小森は首をふった。「姉は、よく兄のところへ行っていたようですけれど、私はほとんど会いませんでした。正月に一度会ったきりです」  小川は、部屋の中のものをときどき観察していた。書棚も木製の古めかしいもので、ガラスの引き戸がついている。中には、英語のタイトルの本が多い。低い位置には同じ大きさの引出が沢山並んでいる。デスクの上にはノートパソコンが二台。その横にも小さなテーブルが寄せられ、ここにももう一台パソコンがのっていた。白いケーブルが天井近くへ伸びている。  数秒間の沈黙があった。 「ご専門は、どんなことですか?」小川はきいてみた。 「一言でいえば、制御関係ですね。ソフトウェア寄りです」小森は答える。「何のことだか、わからないと思いますが」 「ご相談があります」小川は怯《ひる》まずに続ける。「満員電車の中で、他人の洋服を背後からナイフで切り裂きたい。もちろん、相手に怪我を負わせてもかまいません。どんなふうにすれば効率的でしょうか?」  小森はじっとこちらに焦点を合わせて聞いていたが、小川が言葉を切ると、ふっと息を漏らして微笑んだ。 「質問の意味が……」小森は言いかけた。 「片手でこう……」小川は手を前に出して話を続ける。「ナイフを持って切りつけたら、周囲の人たちに見られてしまいますよね。つまり、周りに気づかれないようにするには、どのようにしたら良いのか、というご相談なんです」 「専門外です」小森は微笑んだまま即答した。彼女はちらりと壁へ視線を送る。そこに大きな時計があった。 「私は、ナイフが自動的に動く装置を考えました」小川はさらに話す。「鞄か、ファイルボックスか、そんなものに見せかけて、それを自分の胸のまえに、こう、持っているんです。その箱の中には、スライドする機構が隠されています。ナイフの刃だけは外に出ています。操作をすると、さっとナイフが移動する。それを前の人の背中に押し当てて、作動させる」  小森は、顔を少しだけしかめた。もう笑っていない。じっと小川を見据えたまま黙っていた。 「どう思われますか?」 「どうも」小森は首をふった。 「可能でしょうか?」 「さあ」吹き出すように少し笑う。「どうして、私におききになるのですか? 可能かどうかなんて、実験してみないとわからないんじゃないですか? 相手は人間なんですから」 「相手が人間だと、実験なんかできませんよね」小川は食い下がる。 「ええ、普通はできないと思います」小森は頷いた。  普通じゃないんですよ、と小川は言おうと思った。 「じゃあ、もうそろそろ」鷹知が腕時計を見ながら言った。  小森の視線が彼の方へ向く。 「また、なにかありましたら、ご連絡を差し上げたいと思います」鷹知は立ち上がった。「電話をおかけしてもよろしいでしょうか?」 「メールにして下さい」小森は無表情のまま答えた。  名刺をもらい、小森助手の部屋を二人は辞去した。  通路をしばらく黙って歩く。 「どうして、あんな話を?」ぼそっと呟くように鷹知がきいた。 「え? ああ、装置のこと?」 「うん」 「小森さん、怒っていたかしら」 「あまり、気を良くした感じではなかったかな」 「なんとなく、話してみたくなったの」 「直感で?」 「ええ、直感で」 「それで、なにか得られた?」 「駄目、全然駄目」 「あまり、効率の良い攻め方ではないね」      3  小森助手に会うことは予定外であったが、そのあと、二人は佐久間クリニックを訪ねることになった。これも予定外だった。まだ、大学の構内を歩いているとき、鷹知の携帯電話が振動した。佐久間医師から電話がかかってきたのである。 「あ、はい、わかりました。これからすぐ伺います」と言ったあと、鷹知は小川の顔を見た。 「私も行きます」  タクシーで移動して、佐久間クリニックの前に到着した。車の中では、どんな用件だろうか、と二人で想像を語り合ったが、あまりこれだと思い当たるものはなかった。  マンションのドアをノックする。時刻は、まだ六時まえだった。  佐久間が玄関まで出てきて、三人はそのまま奥の診療室へ入った。椅子に腰掛け、佐久間と向き合った。 「いやあ、どうも、この頃ストレスが多くてね」佐久間は溜息をついた。そう言われてみれば、たしかに最初に会ったときよりも多少|窶《やつ》れているようにも見える。 「警察ですか?」鷹知がきいた。つまり、警察の相手をすることに時間を取られる。それが、疲れる要因なのだろう、という想像である。 「それもある。何度も何度も、同じことを話さなくちゃならない。中野さんのところの事件ね。うん、あれは、何だろう、ちょっと恐くなってきたよ。それもあって、どうもねぇ、僕自身がカウンセリングを必要としている状態かもしれない」彼はそこで少し笑った。しかし、最後はまた溜息混じりになる。相当に疲れている様子だった。 「ほかにも、なにか、あるのですね?」 「ある」佐久間はすぐに頷いた。「しかし、話せない。警察には話せない。それで、君たちならば、と呼んだんだが、やっぱり、まだ迷っている。医師として、これはまずいだろう、と思ってね。ほかの医師に相談した方が良いかもしれない、とも考えた。そういう仕組みがあるんですよ。でもね、それも、やはりできない。知らない人間だ。友達じゃない。僕の立場をわかってもらえない」 「私たちならば、先生のお立場は充分に理解しています」鷹知が言う。「秘密を守るという意味では、職業上の倫理は、我々の仕事も先生方と同じだと理解しています」 「うん、人の命がかかっている、人の人生がかかっている、それでも、内緒にしておかなければならないことがある。どうだろう、それは正しいことだろうか? 僕自身よくわからない」 「ここで議論をしても良いのではないでしょうか?」小川は発言した。「どちらにしても、一人で秘密を抱え込んでいる状況は、その、客観的に見ても、危険だと思います」 「危険?」佐久間が小川を見据えた。「ああ、僕が殺されるかもしれないってことかな?」 「いえ、そういう意味で申し上げたのではありませんが、でも、そうですね、できれば、情報はある程度は分散した方が、責任は小さくなると思います」小川は精一杯考えながら話した。相手が持っている情報がどのくらいのものなのかわからないので、こんな抽象的なことしか言えない。「先生の許可なしでは、絶対に他言しません。警察にはもちろん話しません」 「そう願いたい」佐久間は言い、深呼吸をするように長く息を吐いた。「では、話そう」  二人は待った。佐久間は数秒間言葉を切ったあと、静かな口調で語り始めた。 「クライアントで、切り裂き魔の被害者の一人です。今朝、会ってほしいと言ってきた。その彼女が、昨日、自分の家のゴミ箱で、コピィ紙のような紙が丸めてあるのに気づいたという。自分はそんなものは使った覚えがない。何だろう、と思って、その紙を広げてみたら、スケッチのように、鉛筆で絵が描かれていたそうです。人間が描かれていて、その胸のところに、四角いものを取り付けてある。背中の方へ紐を回して、縛りつけてあるみたいな。それから、もう一つ絵がある。その装置をクローズアップしたスケッチらしい。何の絵だろう、と見ると、どうやらそれは、ナイフの刃がついた部分が動くようになっている。オートマチック・カッタという文字が書かれていたそうです」 「オートマチック・カッタ?」小川は言葉を繰り返した。 「ナイフの刃の部分には、カッタの刃を装着する、と説明がある。すぐに、その意味するところがわかって、その女性は、恐くなってしまった。その絵をすぐに破り捨てたそうです。ちょうどゴミを出す日だったので、ゴミ袋に入れて捨ててしまったというんです。ただ、どうしても、その絵のことが忘れられない、だいいち、どうして、そんなものが家の中にあったのかもわからない。そう考えるとますます恐くなって、僕のところへ電話をかけてきました。すぐに来なさい、と彼女を呼び出しました。そして、ここでその話を聞いたんです。どんな絵だったのか、と尋ねて、彼女に描かせたものが、これです」  佐久間は、椅子を回転させ、デスクの上にあった紙を手に取り、再びこちらを向いた。鷹知と小川の前にその絵が差し出された。  小川は、背筋が寒くなった。息が痙攣《けいれん》しそうで、しばらくしゃべれなかったほどだ。  そこに描かれている絵は、小川が想像したもの、真鍋と話をしたもの、さきほど、小森助手に相談したばかりのもの、彼女の頭の中にあったイメージと、ほとんど同じだった。  顔を上げると、佐久間がじっとこちらを見据えていた。鷹知とも目が合った。言葉がなかなか出てこない。沈黙がしばらく続いた。 「どう考えたら良いでしょうね」佐久間がさきに口をきいた。 「いえ、どう考えたら良いのか……」鷹知が首を捻る。「まず、その女性は、どう言っているのですか?」  ああ、そうだ、それをきかなければ、と小川も思う。 「自分がいないうちに、誰かが家に忍び込んで、それをゴミ箱に入れておいたのだ、と彼女は話しました」佐久間は語った。「そこで僕は、鍵がかかっていなかったのか、部屋に侵入者があった形跡がほかになにかなかったか、という質問をしました。すると、鍵はかかっていたと思う。でも、鍵なんかはプロであれば簡単に開けてしまうのではないか、と彼女は答えました。また、ほかには、特に不思議に思うような点はなかった。自分が気づかないだけかもしれないが、不審に思ったものはない、ということです」 「失礼ですが、その女性は、普段、どんなふうでしょうか? つまり、先生とお話をしていて、現実の認識力や、適応能力はいかがですか?」鷹知は次の質問をした。「たとえば、まえから、不思議な話、ありもしないような妄想というんでしょうか、そんなことがあったでしょうか? 病状といって良いのかどうかわかりませんが、まったく正常な人が話している内容と受け止めて良いのか、という意味です。表現が適切でなかったら、謝りますが」 「いえ、そのご質問は極めて的確だと思います」佐久間は頷いた。  小川も、鷹知の質問には感心するばかりだった。自分は、つい今の話を鵜呑みにして、どうやったらそんな事態になるのか、という方向へしか思考を向けなかったからだ。鷹知が指摘したように、そもそもまず、話をしている本人を疑うべきだろう。  それにしても、その女性というのは、四人のうちの誰なのだろう。それを佐久間医師は話してくれるだろうか。否、今日のところは、そこまでは無理かもしれない。 「これはある程度、いえ、かなり僕の主観的な意見になりますが」佐久間は話した。「その方は、ここへ来た当初から、そういった傾向を持っていました。最初は、まったく普通の感じでした。話はまともで、現状をしっかりと認識しています。ところが、少し長く話を聞いているうちに、ちょっとずつずれてきます。ほんのちょっとしたことなのですが、自身の動機によってとる行動が、ほんの少し、普通ではない。ほとんど目立たないことなのですが、気がつくと、えっと思うようなことが幾度かありました。そうですね、たとえば、自分は片方の足が、もう片方よりも少し太い。そのことがとても気になっている。だから、どうしても短いスカートが穿けない、と言うのです」 「それは本当だったのですか?」小川は尋ねた。 「僕は、メジャを貸してあげるから、自分でそれを測って確かめてみなさい、とアドバイスをしました。こういったとき、医師が直接手を出しては治療の効果は低くなるのです。人からの言葉を耳で聞いたことは、単なる情報であって、たとえば、僕がどう考えているのか、というふうに捉えられるだけです。メジャは意志を持っていませんから、客観的な情報として認識しやすいでしょう。僕のところへ相談に来る人たちは、往々にして、他人が自分をどう思っているのか、ということに敏感で、普通の人よりも余計にそれを考える傾向があります。そして、その考えがどんどん深くなっていくと、途中のプロセスをパスして、自分が考えているはずなのに、他人が考えていると認識してしまい、ついには、それを言葉で聞いた経験のように、実際に観察した現象のように処理をされるようになります。そこまでいくと、社会的にも非常に都合の悪い状態になりますね」  鷹知も小川も黙っていた。二人は一度顔を見合わせた。今回のことは、どう考えれば良いだろう。 「ですから、おそらく、まったくの嘘ではないと思います。自分が描いたこの絵よりも、もっと正確できちんとしたスケッチだった、と彼女は話しました。何者かが、自分を怖がらせようとしている、というのが彼女の考えのようです。それに、もしその紙を捨てずに、警察へ持っていったとしても、きっと信じてもらえなかっただろう。かえって自分が疑われるだけだ、と言いました。そういったことまでも見越して、犯人は大胆にもスケッチを彼女の家のゴミ箱に入れたのだと」 「なるほど、ゴミ箱に入れたのは、警察に彼女を疑わせるためだ、というわけですね」小川は話す。「たしかに、手紙であれば外部から来たものだという見方ができますが、くしゃくしゃに丸められた紙ならば、それは外部から来たものではなく、その家にあったものだ、とまず考えるかもしれません」 「それに、ゴミ箱をわざわざ見て、気づくのが不自然だと思うんじゃないかな」鷹知が言った。 「それも、彼女は説明をしました」佐久間は指を鷹知の方へ向けた。「自分は、ゴミ箱に捨てたものはすべて覚えている。異物があれば、気がつくのが当たり前だと。つまり、犯人は、彼女がそういったことに神経質なことを知っていて、それを利用したのではないかと」 「うーん、難しいですねえ」鷹知が唸る。「先生ご自身は、どうお考えですか? これは本当のことでしょうか?」 「彼女がその絵を見たかどうか、ですか?」佐久間は問い返した。鷹知が頷くのを確認して、彼は続ける。「そうですね、たぶん、その絵が存在したことは事実でしょう。話に矛盾はありません。行動にも不審な点はない。理路整然としています。彼女がどう考えたかは別として、何者かが、そのゴミ箱にスケッチを捨てたことは事実ではないか、と僕は思います。ただ、どうなんでしょう、こんなおかしなものが、現実にありえるでしょうかね?」 「でも、先生はあってもおかしくないと思われたのですね?」鷹知は言った。「だからこそ、僕たちに話さなければならないと考えられた」 「うん、まあ、そう……。僕自身は、思いもしないことだった。しかし、こんなこと、普通じゃあちょっと思いつかない、という気がした。被害者だから、そんなことまで考えた、という解釈もできるかもしれないが」 「私は、その可能性があると思います」小川は言う。「被害者になって、切られたときのことを何度も思い起こしていれば、それくらいのこと、思い至るのではないかと。ただ、それをスケッチして、誰かほかの人間が忍び込んでゴミ箱に入れていった、という妄想は、普通ではないと思います」 「その彼女というのは、誰なんでしょうか?」鷹知がきいた。突然、核心に迫った質問である。  佐久間はまたしばらく黙った。天井を見つめる視線。そして長く息を吐いた。 「いや、それは言えない」彼は首をふった。「もし、警察に漏れたら、これは僕の責任になる。そのときには、そんな事実は一切なかった、と証言するつもりです」 「警察には話しません」 「先生。怪我をした人たちもいますし、それに、中野さんは殺されたのです。私は、二つの事件が同じ人間の仕業《しわざ》であると考えています」小川は話した。「職業倫理も大切ですが、情報を警察に提供しないことで、犯人の発見が遅れて、新たな被害者が出るかもしれません。そちらの責任の方がずっと大きいのではないでしょうか」 「もちろん……」佐久間は頷いた。「それを考えたからこそ、こうして相談をしているのです」 「では、我々が解決をすれば良いのです」小川は言った。「その方に会って、もっと詳しく話を聞いてきます。家の中も調査をしてみます。侵入した形跡があるのか、指紋は残っているのか。我々が真相に行き着けば、先生の責任も回避されます。いかがでしょう?」 「まあ、そんなに簡単にいけば、それに越したことはないけれど」佐久間は僅かに微笑んだ。苦笑をした、といった方が近い。 「お約束はできませんが、しかし、それ以外に方法があるでしょうか?」小川は真っ直ぐに佐久間を見据えた。「それとも、先生がご自身で調査をなさいますか?」  鷹知がこちらに視線を送っていることは感じていたが、小川は佐久間から目を離さなかった。これは賭だ。 「わかった。そうだな」佐久間は頷いた。「その話をしたのは、阿部さんです」 「え?」小川は驚いた。そして鷹知を見る。  彼もこちらをじっと見つめていた。 「彼女は、四人の中では一番特殊です」佐久間は続ける。「僕も、多少手こずっているクライアントです。もともとは、息子さんのことで、こちらへいらっしゃった。彼女は単なる付き添いでした。息子さんは、内気な少年ですが、すぐに、そんなに問題はないとわかった。ただ、もしかして、お母さんの方が問題なのでは、と気づいたのが、だいぶあとになってからのことでした」 「酷いのですか?」小川は尋ねた。 「いえいえ、日常生活には大きな支障はないでしょう。つまり、こういったものは、自覚さえあれば大丈夫なのです。自分で、自分をコントロールできる。そうでなくても、自分で自分を観察できる。それができれば問題はない。気分が落ち込んだら、少しの間、休んでいれば済むことですし、それができなくても、医師に相談をすれば、問題が深刻になることはまずない」 「そうかぁ、阿部さんか……」小川は溜息をついた。「少しだけ、気が重いですね」 「え、どうして?」佐久間が目を丸くした。 「いえいえ、べつに、その、大したことではありませんが……」小川は微笑んだ。      4  佐久間クリニックの建物を出て、中野薬局の方向へ二人は歩いた。日が暮れて、もう空にはぼんやり曇ったような明るさが残っているだけだった。 「あんなに豪語してしまって……、大丈夫?」鷹知が小声できいてきた。「我々で解決するなんて」 「言葉の弾みですよ」 「なんか自信ありげだったけれど」 「ビジネスなんですから、ある程度のはったりは必要なんじゃない?」小川は顎を上げて言った。 「まあ、そりゃあ、そうかもしれないけれど」 「正直なところ、ちょっと言いすぎたかな、と思った」小川は溜息をついた。「でも、聞き出せたでしょう?」 「いや、まあ、今日は駄目でも、いつかは教えてもらえたと思うよ」 「そうかしら」 「じゃなかったら、僕たちに話す意味がない」 「探偵って、気が短いと向かない?」 「うん、それはあるかもしれない」 「それにしても、阿部さんとはねぇ」彼女はもう一度、息を大きく吸い込んだ。「どうしたら良いかな。とりあえず、椙田さんには相談してみなくちゃ。あ、こういうのって、他言とは言わないわよね?」 「それは問題ないと思う」鷹知が答える。「どうせ、真鍋君にも話すんでしょう?」 「そうね。彼、何て言うかな。装置の話が、一気に現実的になってきたわけでしょう。なんか、本当なのかしらって思う。夢を見ているみたいで」  その後もあっさりと鷹知とは別れた。もう少し話がしたい、と小川は感じたのだが、しかし考えてみたら、何を話すのか、具体的な内容があったわけでもない。ただ、別れ際に、彼女はなにげなくこんなことを鷹知にきいた。 「こうして、足を運んで、関係者の話を聞く、これが探偵の仕事の基本だということはわかるんだけれど、これしかない? こんなことをしていて、真実に迫れる?」  すると、鷹知は微笑んでこう答えた。 「もう一つだけ方法があるよ」 「え、どんな?」 「ただ、じっと待つ」 「待つ?」 「うん、時間をかけて、相手が出てくるのを待つ」  一人で地下鉄に乗っているとき、その鷹知の言葉が何度か頭に響いた。  待つというのは、考えるということだろうか。それとも、一旦は忘れて、次の事件が起こるまではかの仕事をしている、ということだろうか。それとも……、ああ、そうか。思いついた。  張り込みか。  目星をつけた人物が動くのを待つ、という手法だ。そうか、そういえば、探偵といえば、そのイメージがある。小川はまだ、張り込みなどしたことがない。そういうときには、どんな服装で臨めば良いだろう。食料を沢山ポケットに詰め込んでおくのだろうか。トイレはどうするのだろうか。などといろいろ考えてしまった。  釣り革に掴まっていたが、自分の後ろを人が通ると、背中に軽い接触がある。そのたびに思考が停止し、ガラスに映っている車内を見た。振り返って、周囲の乗客たちを観察した。  彼女の前では、小学生がシートに座って参考書かドリルを広げていた。塾へ通っているのだろうか。それを見て、小川は突然思いついた。  阿部の息子のことだ。中学生だったはず。どこかの塾へ通っている、と話していた。どこだろう? それから、真鍋が言ったことだったか、もう一つ思い浮かぶ。最初の犯行は、犯人が日頃利用している路線で行われた可能性が高い、と。そう、最初だけが時刻が朝なのだ。朝ということは、つまり塾ではない。となると、学校か……。  次の駅が、ちょうど乗り換えができる大きな駅だった。彼女はそこで電車を降りて、エスカレータの右側を上っていった。私鉄に乗り換えるために地下のコンコースを歩く。人間が沢山、勝手な方向へ歩いている。その中をぶつからずに歩けるなんて奇跡ではないだろうか。案内を見ながら進み、改札を入った。ホームにはちょうど電車がドアを開けて停車していた。既にかなり混雑している。ドアの付近の釣り革に掴まることができた。自分は何をしようとしているのか、と自問しながら。  もう今から事務所へ帰っても、真鍋はいないだろう。椙田はどうせいつもいない。このまま自宅へ帰れば良いのに。方向はまるで反対だった。  どんどん乗客が増える。あっという間に、周囲の人口密度が高まった。まだドアは閉まらない。アナウンスがまもなく発車することを告げている。もうドアは見えなかった。それが閉まる音がする。遅れて、電車が動きだした。  周囲を観察する。周りは男性ばかり。すぐ前のシートに座っているのは老人だった。膝に箱をのせている。電化製品を購入したのだろう。紐で結ばれ、青い取っ手がつけられていた。その段ボールの表面をじっと観察してしまう。どこかから、カッタナイフの刃が飛び出していないか、と。  右横に立っている男は、折り畳んだ週刊誌を片手に持ち、それを読んでいた。四角い革のバッグは、シートの上にある棚にのせられている。  後ろの男は、すぐ隣に立っている男と話をしている。吊り広告に書かれている内容についてのようだった。小川もそれをちらりと読んだ。週刊誌の見出しが並んでいた。  大丈夫、今のところ、突然背中を切られたりはしないだろう。こんなふうに周囲に注意を払っていれば、危険は少ない。しかし、ほとんどの人間は、そんなこと気にもしていない。テレビで切り裂き魔のことが報じられているのに。女性しか襲われない、と考えているのだろうか。  被害者は四人とも、たしかに女性である。そうか、男性の背中を切ろうと思えば、若干だが高い位置になるだろう。もし、ナイフを仕込んだ装置を押しつけるのならば、それだけ高い位置に持ち上げなければならない。十センチか二十センチ、その程度のことでも、荷物の位置としては、かなり不自然になる。顔が隠れてしまうことだってありそうだ。  つまり、犯人はそんなに背が高くない、と考えることができないだろうか。  駅に到着した。ドアが開き、人が動いた。小川の後ろにいた二人が降りていったようだ。他人の躰が触れ、ときには、揺さぶられる。誰も気にしていない。そういったことが意識されない、ここは特別な場所なのだ。  混み具合は変わらなかった。電車が動き始める。  服を切り裂くことに、どんな目的があったのか。それは、もう何度も考えたことだ。けれど、きっと理由などない。怪我をさせることが目的ではなかったのは、おそらく確かだ。もし、負傷させることが目的ならば、切らずに刺したはずだからだ。刺す方が、アクションとしてはむしろ簡単でもある。ナイフではなく、アイスピックのような凶器が選ばれたかもしれない。  そう、殺したいのではない。怪我をさせたいのでもない。もし、あるとしたら、服が左右に切り裂かれる。そこに肌が見える。傷が見える。血が出る。そういった光景をイメージしているにちがいない。実際に見なくても良いのだ。イメージすることが目的なのだから。そのイメージを確かめたかった。自分のものにしたかった。だから、相手は女性でなければならなかった。女性の白い肌でなければならなかった。  被害者を思い浮かべた。四人とも色が白い。  きっとそうだ。  そういった対象に快楽を感じることは、想像を絶するような行為ではない。もしかしたら、異常でもない。誰にでもある要求ともいえる。ただ、実行するかしないかの一線は、高いハードルではある。  一度でも実行すれば、その体験を、何度も思い出すことができるだろう。  もう四回もやったのだ。  自分の部屋に帰って、目を瞑って、この一瞬の感覚を思い起こす。  繰り返し、繰り返し。  四回もやれば、再現フィルムとしては充分なのではないか。違うカメラワークの映像が欲しかったから、四回も繰り返したのかもしれない。  次の駅では、降りる人間が多かった。少しだけ空気が入れ替わった感じがする。接近していた人は、磁石が反発するように離れる。もともと反発するように出来ているはずのものが、狭い場所に押し込められ、お互い離れようとする力が、結果として全体の圧力になる。  満員電車の中では、自由に移動をすることはできない。狙う相手がいたのだから、電車に乗るときから、目標の彼女のすぐ後ろにいたはず。乗り込んだあとも、すぐ近くのポジションにいて、降りるときには、彼女の背後につく。もしかしたら、周囲の動きによっては、それがうまくいかないこともあっただろう。そのときは、諦めるのか。乗り換えならば、次の電車へついていくのか。その日が駄目ならば、翌日狙うのだろうか。混み合う電車に乗らなかったら、どうするのだろう。ずっとあとをつけていたのだろうか。  電車に乗ったあとも、彼女のすぐ近くに犯人はずっと立っていたのだ。顔を覚えられないだろうか。  すくなくとも、犯人は、時間が自由になる人物だ。被害者が、何時頃電車に乗るのかを観察し、そして、現れるのを待っていなければならない。  通りすがりの犯罪とは、労力がまるで違う。  執拗だ。とにかく、執拗な行為。  ナイフの刃先よりも、その人間の執拗さの方が、むしろ怖ろしい。小川はそう思った。      5  駅から離れるほど、夜が空気に深く染み込み、暗闇の濃度が増すようだった。空には星はない。それよりも、大通りの方角から浸透してくる騒音と、不純物に反射を繰り返したのか、淡い明るさが星雲のようにぽつんぽつんと浮かんでいるみたいに錯覚できた。電信柱の蛍光灯だけが冷たく白く、誰もいないアスファルトを照らしている。住宅地はすっかりと闇に沈み、ところどころに室内の明かるさが浮かぶ。まるで、そこだけに温度があるようだ。異質な暖かさに染まった光の色だった。  小川はその道を歩いた。少し離れたところを男が一人歩いていたのが、気になっていたけれど、知らないうちに消えてしまい、今は一人。道が下っているのか、足の先が靴底で擦れる感覚があった。先日来たときの風景を思い出して歩く。だが、暗くなってしまったため、四つ角に立つ回数が増すたびに、不安を育てていた。  道を間違えただろうか。  どうもそうらしい。勘を頼りに、一本だけ引き返してみる。この道のような気がした。反対側から歩いていくと、ようやく見覚えのある門の形が彼女の前に現れた。阿部雪枝の家だ。  窓に明かりが漏れている。ガレージに車がある。車は、このまえはなかった。もしかして夫が帰ってきているのだろうか。時計を見る。窓からの照明に向けて。七時半。夕食時だ。少々まずいかもしれない。訪ねてきた理由は何だろう? 小川は必死で考えた。佐久間医師から聞いた話は絶対に出すわけにはいかない。むしろ関係のないことを……。そうだ、小森助手のことを尋ねてみよう。知っているか、と。しかし、そんな簡単な質問ならば、電話で済むことではないか。わざわざ何のためにここまで訪ねてきたのか。来ずにはいられなかったのだ。やはり、佐久間から見せられたあのスケッチのせい。思い出すだけでも、背筋が寒くなる。  それ以上考えられなかった。  小川はインターフォンのボタンを押した。  チャイムの音が遠くから届くように聞こえた。やがて、玄関の明かりが灯る。ドアが開いた。男だ。こちらへ出てきた。 「こんばんは」 「どなたですか?」 「小川と申します。奥様はいらっしゃいますか?」 「あ、ちょっとね、今、出かけています」 「そうですか。何時頃お帰りになられますか?」 「ご用件は?」 「はい、その、以前に一度、奥様にお会いしております。お聞きになっていらっしゃらないでしょうか? あの……」小川はバッグから名刺を取り出そうとした。暗いので、少し手こずった。 「中へ、どうぞ」男はそう言うと、ステップを上がり、玄関の方へ歩いていく。 「あ、はい、すいません」小川はゲートの中に入った。「失礼いたします」  明るい玄関の中へ彼は入っていった。背が高く、体格が良い。頭の毛が短く、メガネはかけていない。腕が太かった。靴を脱いで上がったので、余計に見上げる角度になった。  小川は名刺を彼に手渡した。 「あの、ご主人様ですね?」 「ええ、そうです。阿部です」彼は頷いた。そして名刺を見る。「ああ、探偵社の人かな。家内が以前にアルバイトしていた、椙田事務所じゃないですか? 違います?」 「そうです」小川は少しほっとした。「つい最近、名前が変わりました」 「そんな話を聞きました。えっと、今、家内は息子を迎えにいっています。たぶん、八時過ぎになりますね。塾から帰ってくるので」 「そうですか。いえ、特に大した用事はなかったのです。近くまで来ましたので、お伺いしたのですが……、では、また出直して参ります」 「電車の切り裂き魔のことですね? どうですか、なにか手掛かりが掴めましたか?」阿部がきいた。日焼けした顔。太い眉。力強い瞳が小川を強く捉えている。 「はい、残念ながら、現在のところは、まだ有力な情報は得られておりません。警察とも協力をして、調査をしておりますが、なかなか簡単には……」 「まあ、うちが頼んだわけじゃないから、大きなことはいえないけれど……」阿部は笑った。 「いえ、そんなことはありません。奥様が被害に遭われたのですから、お気持ちはお察しいたします」 「こんなこと言ったらいけないのかもしれないけれど、ちょっと無理でしょうね。このまま、さらに事件が起これば、なんとかなるかもしれないけれど。最近しばらく、起きないんじゃありませんか」 「そう、ですね。いえ、でもまだ、十日ほどですから」 「連続事件っていうのは、だんだんインターバルが短くなるのが普通じゃないですか?」 「そうでしょうか?」 「殺人事件なんかだと、そういいますね。犯人が、だんだん、我慢ができなくなってくるんじゃないかな」 「はあ……」  彼が立っている、その奥、通路の先にリビングが見えた。ドアが開いていたからだ。テーブルが置かれている。椅子が斜めになっていた。今まで彼がそこに座っていたのだろう。テレビの音は聞こえない。音楽はかかっていない。テーブルの上には、紙が置かれている。鉛筆も見えた。そして、テーブルのすぐ下、壁際にゴミ箱があった。そんな風景が、一瞬のうちに小川の目に飛び込んできた。彼女の鼓動は速くなった。 「どうします? もうすぐ、戻るだろうから、待ちますか? お茶くらいなら出せますけど」 「いえ、そんな」片手を広げる。「もう、失礼いたします。また、後日、ご連絡を差し上げますので。奥様に、どうかよろしくお伝え下さい」 「そうですか……」微笑んだままの顔で彼は頷いた。 「では、失礼いたします」  小川は玄関のドアを開けて、外に出た。  もう一度、中を向いて頭を下げる。彼の顔を見た。まだ、同じ表情だった。  ドアを閉める。そして、ステップを下りていく。ゲートも元どおり閉めておいた。  アスファルトの道路が傾いている感じがした。そこを早足で歩く。何度か後ろを振り返った。阿部の家。その窓。その明かりを見て。  角を曲がったところで、息が苦しくなって、立ち止まった。胸に手を当てて、深呼吸をする。何だろう、緊張していたようだ。何を考えたのだろう。自分で考えたことが怖ろしかった。だから、こんなに鼓動が……。  一人で来るんじゃなかった。せめて、真鍋でも、そう彼でも一緒にいてくれたら良かった、と考える。  駅の方へ向かって歩く。阿部雪枝と出会うのではないか、と考えたが、それはなかった。小川が駅に到着したときに、まだ時刻は八時まえだった。都心へ向かう上りの電車は空いていて、彼女はシートに座わることができた。      6  翌朝、小川は少し遅く出勤した。事務所には既に真鍋がいた。窓がすべて開けられている。 「何、どうしたの?」 「あ、いえ、空気を入れ換えているんです」 「寒くない?」 「もうそんな季節じゃありませんよ」 「あぁあ」溜息をつきながら、自分の椅子に小川は座る。 「溜息をついて座る。立ち上がるときには、つい、どっこいしょと言ってしまう」真鍋が窓を閉めながら言った。「朝から、お疲れの様子ですね」 「なんか、昨日、眠れなくって、それで、お酒を飲んで寝ようとしたら、ますます目が冴えてきちゃって」 「二日酔いですか?」 「いえ、そこまでは飲んでないけど。でも……」小川は額に指を当てる。「ちょっと頭痛がする。もしかして、風邪をひいたのかなぁ」 「あ、そうだ。プレゼントがあるんです」真鍋が自分のデスクへ行き、紙袋を手に取った。 「え、プレゼント? えっと、何の日?」 「まあ、母の日ではありませんけどね」 「一言多いよ」小川は立ち上がった。「ありがとう。何かなぁ」紙袋の中を覗いた。 「何、これ」声が低くなる。  グリーンのゴムの板と白いロープだった。 「プロテクタですよ」 「プロテクタ?」と言葉にしなくても、その直前に理解できた。「うわぁ、もう、やめてよねぇ、こういう冗談、好きじゃない、私」 「あ、あのぉ、冗談のつもりではありませんよ」真鍋は口を窄《すぼ》めた。「それを背中に入れていれば、電車に乗るのも恐くないでしょう?」 「どうして、私がこんなのしなくちゃいけないの?」 「いえ、だって、なんか、恐いって話していたじゃないですか、電車に乗るのが」 「言ったぁ? そんなこと」 「聞きましたよ」 「まあ、たしかに、ちょっと疲れていて、いえ、酔っていたから、そんなこと言ったかもしれないけれど、でもね、何、こんな、コルセットみたいじゃない」 「コルセットって何ですか?」 「これ、この紐で躰に縛りつけるわけ? うわぁ、跡が残りそうじゃん」 「背に腹は替えられないっていいますからね」真鍋はそこで笑い出した。「あ、今の、可笑しかったですね。背に腹は替えられませんって……。お腹につけても駄目ですからね」 「笑ってなさいよ、いつまでも」 「まあ、つけるか、つけないかは、小川さんの自由です」 「つけないって言っているでしょう」 「え、言いました?」 「もう、恥ずかしい。これは明らかにセクハラだな」 「ちょっと、細すぎましたか?」 「何?」小川は、ゴムボードをじっと見る。それから、はたと気づいて、視線を彼に戻した。「何考えてるのよ」 「ですから、僕は、その、うーん、親切というか、小川さんのことを気遣って、一所懸命それを作ったんですよ。自分のカッタ・マットを一つ犠牲にして」 「あ、本当だぁ。新しいものじゃないわけ。どうして新品を使わないの?」 「もったいないじゃないですか」 「あのさ、どこが気遣ってるって? ああ、なんか、だんだん、腹が立ってきたぞ」 「いえ、もう充分怒っているように見えます」 「私が襲われるっていう発想が、そもそもおかしい」 「いや、そうは思っていません。そうじゃなくてですね、襲われるかもしれない、という気持ちが問題なんですよ。そういう不安を抱くことが、既にストレスだと考えたんです。だから、それをつけていれば、少しは安心できるじゃないですか。精神的な効果があるわけですよ。それに、背筋もぴんと伸びて、美容にも良いかもしれませんよ」 「美容? 兵隊さんの行進みたいになるわよ、こんなのしてたら」 「いえ、腕は曲がります。首も大丈夫です。背中だけですよ。猫背が治って良いと思います」 「私、猫背?」 「いえ、もののたとえですよ。猫は猫背じゃないですか」 「そっちは、たとえだよ」 「背骨がずれているかもしれませんし」 「よくそうやって、次々デタラメを思いつくなあ」小川は少し笑った。 「いえ、面白いかなっていう気持ちも、正直ちょっとありました。申し訳ありません。こんなに怒られるなんて、予想もしていませんでした」真鍋は頭を下げた。「ごめんなさい、あっと、痛てて……」彼は突然背中に手を回す。「やっぱ、お辞儀はできませんね。たしかに、ちょっと問題かな。途中で折れ曲がるような機構にした方が良いですね」  彼は、シャツのボタンを外し始める。 「おいおい、何なの? 填《は》めてるわけ?」 「ええ。ボードが大きかったんで、二つ作ったんですよ」 「ちょっと、やめてよ」小川は横を向いた。 「すいません。すぐ外します」  しばらく、見ないようにしていた。 「もういいですよ」真鍋が言う。  シャツの下から、するっとそれを引き抜くところだった。それをこちらへ見せる。 「いい、見せなくて」小川は立ち上がった。「ああ、朝から、気分悪いわぁ」 「どうしてですか?」 「君、どうして、そんなことしてるわけ?」 「いちおう、自分で作ったものを人様に使っていただくなら、自分で試験してみなきゃなって思って」 「思えば、勝手に、もう……」 「なんか、何を怒られているのか、よくわからないんですけど」  小川は舌打ちをして、立ち上がる。コーヒーか紅茶でも飲もう、と考えた。 「填めていても、慣れてしまえば、そんなに違和感はないですよ」 「慣れたくないよ、そんなのに」 「ですけど、いざというときには、心強いですよ。これ、たとえば、強盗に襲われたときなんかも、役に立つかもしれません。その場合は、前にした方が良いですけどね」 「役に立たないと思う、絶対」 「そうですか?」真鍋がソファに座った。  しばらく、静かになった。真鍋は座ったまま考え込んでいるようだ。こちらを見ない。 「コーヒーがいい? 紅茶がいい?」小川はシンクの方へ移動しながらきいた。 「いえ、いいです。自分のことは自分でやります」声に元気がない。 「どうしたの?」 「いえ、べつに……」  小川は再び彼の前に戻った。 「悪かった。うん、ちょっと、私も言いすぎたかも。ちょっとだけだけれどね」 「いえ、僕が非常識でした」 「うん、それはそうかも。でも、まあ、悪気があったわけじゃないものね、裏目裏目に出ただけだよ」 「悪気なんかありませんよぉ」 「いえ、私が大人げなかった。うん、ごめんなさい。もう怒っていない。でもね、ちょっとショックだっただけ」 「ショック?」 「紅茶にする?」 「あ、はい、じゃあ」  小川はまたシンクへ行き、二人分の紅茶を作った。それをテーブルに向き合って飲んだ。 「実は、昨日ね」彼女は話を始める。「ちょっといろいろあったのよ。それで、考えてしまって、寝られなくて……」  佐久間クリニックで見たスケッチの話をすると、さすがの真鍋も目を見開いて仰《の》け反《ぞ》った。ソファの背にもたれかかるのかと思うと、弾んでまた元の姿勢に戻った。目は見開いたまま、口も小さく開けたままだった。 「凄いでしょう?」 「凄いですね」 「ぞっとしたもの」 「まさか、本当だったなんて」 「いえ、本当かどうかはわからないよ」 「でも、そんなものを考える人間が、ほかにいたってことが凄いじゃないですか」 「うん、そうかな、真剣に考えたら、思い至るものかもしれないって、私は考えた。昨日の夜は、とりあえず、それで自分を納得させたんだけれど」  次に、阿部の家に一人で訪れた話をした。そこで、阿部雪枝の夫に会った。あとで調べてみたところ、夫の名は阿部|茂晴《しげはる》。椙田事務所に、雪枝の履歴書が残っていたので、それを見て、自分の手帳に書き写してあったデータである。ちなみに、息子の名は、阿部|和輝《かずき》。中学一年生だ。 「なんか、もの凄く恐かったの」小川は正直に話した。「駄目ね、もしかして、この仕事に私、向いていないかも」 「恐いと感じる方が向いていると思いますよ」真鍋が簡単に言った。 「え、どうして?」 「それだけセンサが敏感だってことじゃないですか」 「ああ、まあ、そうやって言われると、そうかもって思っちゃうけれど」小川は微笑むことができた。「ねえ、真鍋君は、どう思った?」 「何をですか?」 「オートマチック・カッタのスケッチについて」 「うーん、まず、誰も嘘をついていない、という前提で考えると、つまり、阿部さんの家のゴミ箱に、それが入っていたわけです。その場合、可能性は二つあります」彼は、指を二本立てて、前に出した。  小川は思わず両手を前で合わせる。待ってました、と叫びたくなるほどだ。 「一つは、それをゴミ箱に捨てたのは、切り裂き魔である、という可能性。まさしく、ずばり本命です。また、もう一つは、それを捨てたのは、切り裂き魔ではない。この場合は、阿部家の誰かが、単に思いついたものをスケッチして、捨てただけです。阿部さんが、それを見て神経質になってしまった、というだけのことですね」 「誰かっていうと、旦那さんか、息子さんのどちらかってことね。外部の人間がそこに捨てるなんてことはないわけだから」 「わかりませんが、切り裂き魔本人でない人物が、そこまで悪戯をする理由が、そうですね、ちょっと不自然かと」真鍋は指を一本立てて続ける。「さて、前者の可能性ですが、つまり捨てたのが切り裂き魔本人の場合、これは、さらに二つの可能性に分かれます。一つは、切り裂き魔が外部にいる。しかし、被害者の一人である阿部さんをまだ狙っている。怖がらせるために、家に侵入してゴミ箱にスケッチを入れておいた。もう一つは、切り裂き魔は、実は阿部家の内部にいる。この場合は、ゴミ箱に捨てた理由は脅すためではなかったかもしれない。単に、以前からあったスケッチを、知らずに捨ててしまったとか」 「ええぇ、そんなのありえる?」小川は抗議する。 「まあまあ。そんな細かいところはともかくとして、やっぱり、この中では、外部犯の可能性が、僕の一押しです」 「イチオシ? そこまで推薦されても」小川は吹き出した。「でも、万が一そうだとすると、阿部さんの身の上が、もの凄く危険な状態だということにならない? 今すぐに警察に通報しなくてはってことに……」 「今までの話は、最初に言ったように、誰も嘘をついていない、と仮定したときの考察です」 「ああ、そうか、それじゃあ、誰かが嘘をついているってこと?」 「まず、阿部さんが嘘をついている可能性があります」 「それは、私も一番に疑った。でも、何のためにそんな嘘をつくと思う? そこが考えられないのよね」 「佐久間先生が嘘をついている、という可能性の場合も同様ですね」 「そう、でも、佐久間先生の場合は、ちょっと可能性は低いと思うの。だって、阿部さんにきいたらわかることでしょう? 嘘をついてもすぐにばれてしまう」 「いえ、秘密厳守ですし、そんな簡単にはいきませんよ。阿部さんだって、そんなこと私、話していませんって、嘘でも否定するかもしれないわけですから、本人たちの証言だけでは、本当のところは、第三者には見極められないと思います」 「うーん、嘘の目的は何なんだろう。理由がわからない。とにかく、なにもかもすべてがそうなのよ」 「行動原理は、でも、常に自分の欲求を満たすためなんですよ。その欲求が、他人に理解できるものか理解できないものか、というだけのことです」 「わかったようなことを言うじゃない」 「全然わかってませんけどね」真鍋は口もとを緩める。そして、紅茶のカップに口をつけた。こういったときのちょっとした仕草が、キュートだと感じるときがある。「それにしても、中野薬局の方は、凄惨《せいさん》ですよね」 「凄惨?」表現が多少珍しかったので、小川はきき返した。 「同じかなぁ」 「同一犯かどうかってこと? 切り裂き魔と」 「ええ、ちょっと、なんかイメージが違いますよね。うーん、なんていうのか、性格が違います」 「でも、それは目的が違うからじゃない? 片方は、まあ、自分の捩《ねじ》れた欲求というか、悪戯みたいな感じだし。もう片方は、それを咎《とが》められそうになったから、逆ぎれして、中野さんを殺してしまった、というような感じかも」 「あるいは、別人かもしれません。たとえば、切り裂き魔は、中野さん自身だったとか」 「え? 何を根拠に?」 「ですから、単なる可能性です。かもしれないっていうだけです。これはすべて推論ですよ」 「その場合、切り裂き魔が殺されたってこと?」 「そうです」 「どうして?」 「さあ、もうそんなことやめなさいって」 「で、殺したの?」 「うーん、ちょっとやりすぎですねぇ」 「やりすぎやりすぎ」 「じゃなかったら、うーん、復讐とか」 「おお、復讐かぁ……」小川は天井へ視線を送った。「え? どういうこと? もしかして、被害者が犯人に復讐をしたって言いたいの?」 「そうです」真鍋はあっさり頷いた。「それとも、被害者の身内でも良いですけど」 「なにも殺さなくても、警察に突き出せば済むことだと思うけど」 「いえ、殺人なんて、全部そうじゃないですか。なにも殺さなくてもって」 「そうか、そうね、そういえば」 「ま、そういったディテールはですね、おいおい考えることにしましょう」 「だめだめ、だってありえないよ」小川は首をふった。「被害者が背中を切られたことの復讐で、犯人を殺しにきたなんて」 「ちょっと話は違いますけど、そのスケッチは、どんなふうでした? 鞄に入れるタイプですか、それとも自分の躰に装着するタイプですか?」 「装着するタイプ。装着している絵があったの。でも、それをクローズアップしたところの絵もあった」 「だいたいどんな形ですか? 大きさとか」 「薄くて、ほぼ四角ね。なにかに入れれば、荷物に見せかけて簡単に持ち歩くこともできそう」 「そうか、それくらいのこと、やっぱり考える奴はいますよね。ちょっと考えれば、行き着く結論なんだ」 「犯人が、そんな装置を使ったかどうかは、まだわからないと思うわ。私は、そうね、四十パーセントくらいしか信じてない」 「僕は、九十パーセント信じていますよ」 「あ、そう、凄いね。そう言われると、私も五十パーセントくらいかも」 「影響されやすいタイプですね」真鍋は言った。 「阿部さんの旦那さんとか、息子さんとか、君、知ってる?」 「いえ、知りません」 「彼女、どんなふうだった? 佐久間先生のところへ通っているわけだから……、その、なんていうか」 「いえ、全然そんな変なところはありませんでしたよ。どちらかといったら、小川さんの方が変です」 「どこがぁ?」 「いや、だって、ちょっと変わっていると思いますよ」 「あのね、こうなったら言わせてもらいますけどね、君も普通じゃないわよ。ちょっと変わってるなんてもんじゃないな。けっこう珍しい部類だと思う」 「変わってるって言われるの、嫌ですか?」 「え?」 「だいたい、誰だって変わっているところはあるじゃないですか。平均的な人間なんて、むしろ珍しいっていうか、つまりそっちの方が変わっているくらいです」 「まあねぇ」小川は頷いた。「説得されちゃうわね」 「大きな差は、自分で自分がどれくらい変わっているかを、自覚できているか、だと思うんです。たとえば、カウンセリングに行く人って、ストレスを自覚して、しかも他人になんとかしてもらえそうだ、という期待を持てる人ですよね。そういう自分を見る目もあり、他人を信頼できる社会性を持った人が、カウンセリングにかかるわけですよ。それだけで、かなり正常な人間だといっても良いでしょう? 他人に無理矢理引っ張られて病院へ連れていかれるような人は、まずいないわけですから」 「そうなの。でも、そこが恐いのよね。なんか、普通に見えるのに、普通の人として生活しているのに、その奥に異常な精神が潜《ひそ》んでいる、それがときどき、なんかの拍子で現れてくる、そんなのが恐い」 「ホラーですよね」 「ホラーよ、うん。結局、普通の人間が一番恐いのよ。だから、満員電車だって恐くなる。気がついて、気にすると、余計に恐い。あれが恐いと感じない方が、むしろ異常だと思えてくるわけ。たぶん、恐ろしさを感知する感覚が麻痺しているんじゃないかしら、普通の都会人って」 「花粉症みたいなものですね」真鍋が言った。 「え? どういうこと」 「花粉は昔から飛んでいたわけですよね。なのに、こんなに大勢の人間がアレルギィで苦しむようなことはなかった。つまり、昔はもっと不衛生だったし、いろいろな病気もあった。鼻がぐすぐすするくらいなんでもなかった。でも、社会が豊かになって、清潔になって、子供は綺麗なところで育つ。逆にどんどん過敏になってしまう。だから、アトピィや花粉症が表舞台に出てきたんじゃないですか」 「へえ、そうなの?」 「満員電車って、昔からありましたよね。溢れんばかりに人が乗っている列車って、古いフィルムにもあります。屋根の上にまで乗っていたりとか、どこかの発展途上国でも、そんなのあるじゃないですか。だけど、都会はどんどん綺麗になって、住宅も綺麗になって、着ているものも綺麗になって、社会はそうやって洗練されてきたわけです」 「なるほど。それで、ようやく満員電車の異常性を感じるようになったってこと?」 「そうです、これはある意味、必然なんですよ。犯罪だって、ちょっとしたものまで、マスコミが取り上げるようになりましたから、怖ろしいものに対して、大衆はどんどん過敏になっているんです。他人に対しても、過敏になっている」 「まあ、面白い理屈ではあるけれど……。そういうのさ、君の癖なわけ?」 「何がですか?」 「なんかさ、大学のレポートみたいに、こじつけて考察するの」 「こじつけてますか?」 「いや、言いすぎた。面白いと思ったのは、確かだよ。特に反論はしません」小川は微笑んだ。「うん、そうね。今朝の真鍋ショックで、私もまた電車に乗る勇気がわいてきたみたい」 「じゃあ、作ってきた甲斐がありましたね」 「ああ、これねぇ」小川は、テーブルの上に置かれているプロテクタを手に取った。 「あ、そっちは僕のですよ」 「え?」  一瞬遅れて、小川はそれを手から離した。 「ひい……」 「無意識に触りたかったのかもしれませんよ」 「片づけなさいよ、さっさと」 [#改ページ] 第4章 不用意な繰り返し [#ここから5字下げ] この地獄の粘土《ねんど》が人間の叫《さけ》び声や話し声をだすということ、この定形なき塵芥《じんかい》が人間の身振《みぶ》りをしたり罪悪を行なったりするということ、死して形なきはずのものが人間の生命の機能を横領するということ、これはまことに戦慄すべきことがらであった。 [#ここで字下げ終わり]      1  さらに一週間が過ぎた。中野薬局の殺人事件の捜査は難航しているように見受けられた。鷹知と小川は鈴木刑事に二度会ったが、新しい情報はなにも聞き出せなかった。こうだろう、と思われたことが、検査によって証明された、というだけだ。中野薬局の二階の殺人現場からは、被害者や親類の人間以外の指紋は発見されていない。近隣の捜査と聞き込みが一とおり行われたあとも、状況はまったく変わらなかった。凶器は発見されていない。不審な者を見た、という目撃証言も得られていない。犯人はよほど幸運な人間なのだろう、と鈴木は苦々《にがにが》しく語った。  電車の切り裂き魔は、五人めの被害者をまだ出していない。これまでにない長い休息期間といえた。こちらも、竹橋刑事と二回会って情報交換をした。ただし、佐久間医師から聞いたスケッチの話だけは例外で、これはまだ警察には伝えていない。警察は、もう捜査を行っていないのではないか、というのが小川の印象だった。最も力を入れているのは、多くの情報提供者を吟味し、有力だと判断された者に一人ずつ会う、という地道な作業らしい。そして、それらすべてが、事件との関連は極めて薄い、という言葉で結ばれるレポートのページを増やすだけに終わっているのだろう。  鷹知は、もう一つ別の仕事を受けたようだった。調査だとしか聞いていない。そんなこともあって、小川は、真鍋と二人で、佐久間クリニックを訪れた。単独の行動はできるかぎり避けた方が良い、というアドバイスを電話で椙田から受けていたからだった。  佐久間医師と会うのは、先週、例のスケッチを見せられたとき以来である。  小川の方から電話をかけてアポをとった。すると、マンションの診療所へは出ていないので、午後三時頃に自宅へ来てほしい、と言われた。場所を聞き、彼女は真鍋を連れて出かけた。途中で、電車に三回乗った。二人ともプロテクタは装着してこなかったが、幸い、いずれの電車も混み合っていなかった。  佐久間の自宅は都心の高層マンションだった。JRの駅から徒歩で十分少々の繁華街にある。仕事場であるクリニックの場所よりも、自宅の方が交通の便が良い。地価もずっと高そうだった。新しいマンションだけに、セキュリティもしっかりしている。テレビ電話で呼び出して、ロックを外してもらう。ロビィには受付に若い女性が座っていた。 「どこかの会社みたいですね」真鍋は言った。「あの受付の人、どこから給料が出ているんでしょう?」 「管理会社じゃない?」 「住んでいる人が、お金を出し合っているわけですよね。凄いなあ。ああいう仕事がしたいなあ」 「え、受付の?」 「だって、一日中、読書とか、ゲームとかしていられますよ」 「まあ、暇そうではあるわね、たしかに」  二人はエレベータに乗って十四階へ上がる。人気《ひとけ》のない静かな通路を歩き、突き当たりのドアのインターフォンを押した。  玄関を開けて現れた佐久間は、アロハシャツを着ていた。笑顔をつくったものの、目だけが笑っていない、そんな少しだけバランスを崩した表情だった。奥のリビングへ通される。白いワンピースの女性が現れて、挨拶をした。佐久間の妻らしい。五十代だろう、と小川は推測する。 「お世話になっております」丁寧にお辞儀をした。「今日は、事務所の後輩を連れてきました」 「はじめまして、真鍋と申します」彼も挨拶した。「すいません。まだ名刺、作っていなくて……」  見晴らしの良い窓際のソファに二人は座った。対面の席で、佐久間はリラックスした姿勢で腰掛け、脚を組んだ。診療室のときとは印象がだいぶ違って見えた。服装や部屋の雰囲気の差だけではないだろう。 「ちょっと、しばらく仕事を休もうと思いましてね」佐久間は話した。「このままじゃあ、ミイラ取りがミイラになりかねない。自分のこともちゃんとケアをしないと」 「先週は、お疲れのご様子でしたから」小川は頷いた。 「そう、ちょっと限界だったかもしれないですね」彼は真鍋の方をじっと見た。「話は聞いているのですか?」 「あ、はい」小川が答える。「見かけはこんなふうですけれど、信頼の置けるスタッフです。今日、彼を連れてきましたのは、理由があるんです。実は、彼、先生からあのお話がある以前に、私に話してくれたことがあるんです。その、電車の切り裂き魔は、装置を使っているはずだ、と。その機構が、まさに先生が見せて下さったスケッチとそっくりでした」 「へえ……」口を少し開けて、佐久間は真鍋を見つめる。「それは凄いね」  本当のことをいえば、自分もそれを発想したのだが、話が面倒になるのでこの話で通そう、と来るときに二人で打ち合わせてきたシナリオだった。 「それがありましたから、あのときは、とても驚きました」小川は続ける。「でも、あとでゆっくり考えてみますと、つまり、じっくり真剣に考察をすれば、ある意味では行き着く範囲のことなのでは、とも思います」 「想像が可能だ、という意味ですね」佐久間は頷いた。「そう、僕も同じように考えています、今はね……。あのときは、そこまで冷静になれなかった。こんなものを考えるなんて普通じゃない、と思い込んでしまった。客観性を失っていたと大いに反省しています」 「実は、あのあと、私、阿部さんの家に行きました」小川は話すことにした。「もちろん、先生から伺ったことは絶対に口にできません。ただ、彼女に少し質問したいことがあったのです。ところが、ちょうど、息子さんが塾から帰るのを迎えにいかれたところで、お留守でした。代わりに、ご主人と少しだけお話ができました」 「気をつけて下さいよ」佐久間は小川をじっと睨むように見た。秘密を厳守することについてである。 「肝に銘じています」小川は頷く。「いえ、今考えると、私も、あのときは冷静さを失っていた、と思ったのです。たまたま、被害者の一人だったから、びっくりしてしまった、ということもあります。でも、真鍋君も同じ装置の話をしていたわけです。そんなに特別な発想ではないのかもしれない、と思い直しました」 「普通は、そこまでは考えませんけれどね」佐久間は真鍋を見て少し笑った。 「それから、阿部さんと真鍋君は、実は顔見知りです」小川は話す。 「ああ、そうか、阿部さんは、小川さんのまえに勤めていたんでしたね」 「そうです」小川は頷く。「そのお話をしたとき、先生は、たしか、そういえば、そんな話を彼女から聞いた、とおっしゃいました」 「うーん、言ったかな」 「私が、どんなことですか、とお尋ねしたら、それは言えません、というご返答でした」小川は話す。「いかがでしょう? あのときとは、事情が若干、いえ、だいぶ違ってきていると思います。阿部さんが、どんな話をしたのか、お聞かせ願えないでしょうか?」 「ああ、そう来たか……」佐久間は苦笑いした。  佐久間夫人がお茶を持って現れたので、話は中断する。紅茶と白いチーズケーキがテーブルに並んだ。真鍋が嬉しい顔を露《あら》わにする。夫人は頭を下げてから奥へ戻っていった。 「素敵な奥様ですね」小川は言った。「失礼ですが、今はお二人なのですか?」 「あ、うん、そうですよ」佐久間は頷いた。「その、実はね。まだ新婚なんです」 「は?」 「三ヵ月まえに籍を入れたところで」佐久間は紅茶のカップを片手に持って言った。 「ああ、そうなんですか。それはまた……、おめでとうございます」 「いや、べつに、この歳になって、なにもめでたいことはないでしょう。ただ、そうですね、忙しくてなにもできなかったから、ちょっと休んで、二人でゆっくりと旅行にでもいってこようかな、と思っています」 「新婚旅行ですね」 「いやいや、そういうのではなくてね」 「よろしいですね。羨《うらや》ましいです」小川は目を細めた。「いいなぁ、はあ」溜息が漏れた。 「えっと、小川さんは、結婚は? あ、きいても良かったかな」 「お答えしますが、まだです。一度も」 「まだ、若いじゃないですか」 「そういえば、切り裂き魔の被害者は、四人とも、私と同年輩ですけれど、既婚者は、阿部さんだけですね。いえ、実は正確なことは知らないのですが、会ってみて、感じとして……」 「うん、これも個人情報だけれど、僕はそう認識しています。ただ、本人がそう言っているだけだし、たとえば、法律上は未婚でも、事実上はパートナがいる、という場合もありますからね」 「そういったことは、カウンセリングでは尋ねないものなのでしょうか?」 「本人が話せば聞きます。こちらから、無理にきき出すようなことはしません」  ケーキを食べた。そして、紅茶を飲む。しばらく、話が途絶えた。小川は、質問の答を待っていた。阿部雪枝のことである。佐久間がそれを忘れたということはないだろう。 「どういった表現で話して良いのか、今、考えていたんだが、どうもね、難しい」佐久間は語り始めた。「録音でもあって、それをそのまま、つまり彼女の言葉のまま、聞いてもらうのが一番わかりやすいとは思うけれど。まあ、僕の主観が入ることはもちろんだし、そこは差し引いて聞いてもらいたいんだが」  佐久間は慎重な前置きをした。そして、ここでまた数秒間黙った。 「まず、言葉の端々に表れるのは、僕が彼女に興味がある、というふうに彼女が誤解をしているらしい、ということだった。僕は、特に彼女に親しく話しかけたつもりはない。いや、この職業では、できるかぎりクライアントの信頼を得て、心の中へ入っていく必要があるわけだから、それは親しくなろうとしている、という状況と同じかもしれない。阿部さんは、これまで周囲の男性から、あまり優しく扱われた経験がないのか、あるいは、その逆で、いつもちやほやされる環境にあったのか、どちらかだろう。つまり、そういった対人関係の距離みたいなものが把握できないという症状は、特に珍しいものでもない。思い込みが激しい、と一般に言われている、まあ、よく見られるものだと分析できる。ええ、とにかく、僕は、いつも、彼女には手こずっていた、それは確かです」  小川はじっと佐久間を観察していた。彼は、カップに口をつけ、そこで息を漏らした。視線を落とし、無理に淡々とした口調で通そうとしているようだった。 「僕に話した内容としては……、たぶん、小川さんの事務所のことだと思うけれど、そこの所長さん? 五十代の男性だそうだね。長身で渋い感じの。その人の話がほとんどだった」 「え、本当ですか?」 「えっと、彼女の表現のままに話すけれど、自分は、その男性と今とてもうまくいっているから、先生を満足させることはできない、と僕に言うんだ」佐久間は少し笑った。「今日はこんなことがあった、あんなことがあった、という話がとても多かった」  小川はびっくりした。椙田と阿部の間にそんな事実があったのだろうか。自然に、視線が隣の真鍋へ向いた。真鍋は、彼女の視線を受け止め、首を捻るような仕草を見せた。なにも言わなかった。 「もともと、僕のクライアントは、彼女ではなかった。彼女の息子さん、和輝君だ。だから、クリニックに来始めたときは、もちろん、和輝君との会話を試みた。しかし、あまり口をききたがらない。うん、まあしかし、頷いたり、必要最小限の返答はする。短い単語でね。あれは、なかなか頭の良い少年だ。少し内向的だというだけで、特別な問題はない、というのが僕の意見だった。それでも、お母さんが、是非もう一度診てほしい、と電話をかけてくる。そんなことを繰り返すうちに、和輝君は、実はわざと黙っているのではないか、と気づいた。そこで、お母さんには部屋から出てもらって、彼と二人だけで話をしたんだ。そうしたら、彼は涙を流して話してくれた。おかしいのは僕じゃない。お母さんを、どうか治して下さいって」  突然の話に、小川は驚いた。片手を口に当てていた。 「だから、僕もそのつもりで、そのあとは彼女の方を注目するようになったんですよ。まあ、でも、それほど酷いわけではない。うん、たしかに、ちょっと思い込みが激しい、多少、妄想癖がある。あるいは、虚言癖がある。そんなところかな、と思いました」 「真鍋君、なにか知っている?」小川は我慢できなくなって尋ねた。「椙田さんから、阿部さんのこと、聞いたことは?」 「いいえ」真鍋はゆっくりと首をふった。「プライベートなことはわかりませんけれど……。あの、直接、椙田さんにきいてみたらどうですか?」 「そうね、ききにくいけれど」小川は頷いた。 「本当かどうかは、もちろんわかりません」佐久間は言った。「これくらいの虚言は、ごく普通のことです。どんな人間でも口にするレベルです。異常な行動ではありません。自分をよく見せるための一つの方法といえます。見栄を張ったり、あるときは、相手に対する親切のつもりで出ることだってあります」 「具体的な話も出たのでしょうか?」小川は尋ねた。 「出ました。どこへ一緒に行った。どんな話をした。もっといろいろあったと思います。息子さんがいるところで話されるので、どうしたものか、と僕は心配になりました。しかし、息子さんを部屋から出す、ということは一度もしませんでした。彼女は、必ず息子さんと一緒なのです。それから、僕としても、三人の方が安心できました。二人だけになるのは避けよう、という考えがあったと思います。非常に、子煩悩《こぼんのう》というか、親馬鹿といっても良いと思いますが、もうべたべたに可愛がっているのです。母親としては当たり前のことでしょうけれど、その、その点については、歯止めがないという印象は受けましたね」 「症状としては、どんな症状があったのですか?」 「彼女の方は、考えすぎてしまう、ストレスが溜まる、それが原因で頭痛がする。眠れない、といったことでした。安定剤を飲んでいたと思います。多くは処方していません。気をつけて、少量ずつにしました」 「それは、中野薬局で手に入れていたのですね?」 「これは、しかし、ほかの三人も同じですよ。そう、だいたい、共通していますね」      2  佐久間宅を出たとき、佐久間夫人が玄関の外に見送りにきた。ドアから少し離れたところまでついてきたのだ。 「どうも、ありがとうございました」小川はもう一度頭を下げた。 「あのぉ、あの人は、正直な人間です」佐久間夫人が囁くように言った。 「あ、はい」突然の言葉に、小川は面食らった。目を見開き、三度瞬いたと思う。 「ずいぶん、悩んでいたようです。普段は、私にも話してくれません。きっと、小川さんを信じて、その、彼なりの決心があって、打ち明けたのだと思います」 「はい、感謝しております」 「どうか、よろしくお願いいたします」彼女は深々と頭を下げる。  数メートル先のホールで、真鍋がエレベータのボタンを押していたので、チャイムが鳴り、ドアが開く音も聞こえた。 「では、これで」小川もお辞儀をして、エレベータへ急ぐ。  乗り込んでからも、夫人の姿が見えたので、またお辞儀をしなければならなかった。  ドアが閉まり、モニタの数字が小さくなっていく。 「どう思う?」小川は真鍋にきいた。 「いろいろ思っていますけど、まとまりません」 「じゃあ、次にすべきことは?」 「椙田さんと話をすることでは?」 「おお、そうかそうか」小川は頷いた。  さっそく携帯電話をバッグから取り出す。  マンションのロビィを抜けて外に出た。彼女はそこで椙田を呼び出した。 「はい、何?」椙田が出た。 「小川です。今、よろしいでしょうか?」 「少しなら」 「あの、つかぬことを伺いますが」 「つかぬこと? いつの言葉だ」 「えっと、阿部さんのことです。あの、そのぉ……、阿部さんとは、どんなおつき合いだったのでしょうか?」 「誰が?」 「椙田さんです」 「え? いや……、なんのつき合いもない。バイト料を支払って、仕事をしてもらっただけだよ」 「個人的なおつき合いはなかったのですか?」 「なんかのネタかい? 笑わせようとしているのかな」 「違います。真面目な質問です」 「どうして、そんな馬鹿なことをきくんだ?」 「佐久間医師から、極秘の話を伺いました。阿部さんが、椙田さんと、その、うまくいっているから、先生を満足させることはできない、と佐久間さんに話した、というんです」 「先生っていうのは、佐久間医師のこと?」 「そうです。佐久間先生も、阿部さんのことは、むしろ避けていた、というふうにおっしゃっていましたが」 「ああ、つまり、阿部さんが、そういった、ありもしないことをあれこれ話している、ということが言いたいわけだ」 「そうです」 「ありそうだね」 「というと?」 「うん、たしかに、そんなことを聞いたことがある。どこかの医者に色目を使われたとか。誰の話をしているのかって思ったけれど。旦那以外に、言い寄ってくる男がいるって話は何度かしていた。子供を病院へ連れていくと聞いたから、病院の医師なのかなくらいに思っていたが、そこのことだったのか」 「そうなんですか」 「まあ、そういうこともあってね、あまり親しくなると危ないな、という人物ではあったわけだ」 「それで、解雇されたのですね?」 「うん、まあちょうど、事務所が引越になったし、そうだね。君のように有能で魅力的だったら、事務所が引っ越すくらいで解雇はしないだろう。あ、勘違いしないでくれ。彼女は単なるバイトだった。君は、正式な社員だ」 「ありがとうございます」 「ほかには?」 「はい、今のところはそれだけです」 「なんだ、それだけのために電話をかけてきたのか」 「申し訳ありません」 「じゃあ、気をつけて」 「え、何にですか?」 「いろいろと気をつけて行動をしなさいという、まあ、挨拶代わりだよ」 「はい、わかりました」  電話を切った。 「どうでした?」真鍋がすぐにきいてきた。 「身に覚えはないって」 「身に覚えはないって、椙田さん、そう言ったんですか?」 「そういう意味のことを言った、ということ。要約したの。うん」小川は短く息を吐いた。「こうなったら、突撃かしら」 「突撃?」 「阿部さんに体当たり」 「え、体当たりするんですか?」 「譬喩《ひゆ》だよ」小川は目を細めて視線を冷たくした。「でもなあ、あまり、ことを荒立てない方が良いかもっていう気もするし」 「僕は、そっちです。ちょっと冷静に考えましょう」 「そうだね。いろいろ不確定なこともあるしな」 「だいいち、僕たちにそこまでの権限はないと思うんです」 「あ、そうか、たしかに、警察にだって、そんなことで問いつめる権限はないわね」  とりあえず事務所へ戻ることにした。真鍋は、大学の用事があると言って、途中の駅から帰ってしまった。 「こんな時間から、大学に何の用事があるの?」と尋ねたところ、 「そりゃあ、大学生なんですから、それくらい用事はありますよ」との返事であった。 「とにかく、もう留年しないようにね」とだけアドバイスをして別れた。  事務所に戻り、施錠されているドアの鍵を開けた。もちろん、椙田はいない。時刻は夕方の五時少しまえ。もう、このまま閉めて、帰宅しても良い時刻ではあるが、彼女は日頃、六時頃までは事務所にいるようにしている。客が訪ねてくることなど、滅多にない、否、ほとんどないのだが、それでも、給料をもらっている以上、せめてそれくらいは、と思うのだった。  気晴らしに音楽を聴くことにした。事務所に自前でオーディオセットを置いている。 「こんな日は、ブルースかな」と独り言を呟きながら、CDを選んだ。「何だ、こんな日って……」などと自分で突っ込みを入れながら。  音楽が流れ、コーヒーも淹れて、ソファにゆったりと腰掛けてみた。さて、何をどう考えようか。  まず、もう一度、どうしても椙田と話がしたい自分がいることがわかった。さきほどは近くに真鍋がいたので、やや不自由だったこともある。我慢しなさい、と命じられて、その場でじっと待機していた自分がいたのだ。  しかたがない。  解放してやるしかないな。  彼女は、椙田に電話をかけた。何を話すのか、まったく頭には思い浮かばないまま。 「もしもし、小川です」 「はい。また君か」 「すみません。今、事務所に戻りました」 「どうしたの?」 「さっきは、近くに真鍋君がいたので、遠慮をしておりました」 「どういうこと?」 「ですから、もっとディテールというか、生々しいところをお伺いしたいと思いました。捜査のためには是非とも、情報が必要なんです」 「生々しい? なんか勘違いしていない?」 「本当のところ、阿部さんとは、どうだったのでしょうか?」 「おいおい、なんか、変だよ。信じてもらえないわけかな?」 「うーん、そうかもしれません。阿部さん、なかなか可愛らしいところがありますので」 「君、酔っていない?」 「お答え下さい」 「なにもない。彼女がこちらに好意を持っている、ということは、もしかしたら本気で、あったかもしれない。冗談で言っているのか、本気なのか、それはわからなかった。それを白黒つけようとも思わなかったからね」 「そうですか……、あの、もちろん、私は信じているつもりです」 「さっき、可愛らしいところがあります、と言ったね」椙田がゆっくりとした口調になった。「そういうことを口にするのは、非常に自虐的だと僕は思う。感心しないな」  椙田の言葉が鋭かった。自分でもそれはわかっていたことだ。わかっていることを言われるのが、一番重い。  しばらく、言葉を失ってしまった。 「申し訳ありません」ようやく返事をする。「そういうつもりでは……」 「いや、そういうつもりだったと思う」椙田が言った。 「はい」小川は頷く。「すみません、たしかに、そうです」 「叱っているんじゃないよ。いいかい、これは仕事だ。ビジネスだ。君は何を探ろうとしている? 阿部さんが犯人なのか? 彼女が怪しいのか? もしそうならば、彼女の身辺で、具体的な証拠を見つけることに頭を使う。自分が知りたいことと、自分に求められていることを混同じないように」 「はい、そのとおりです。わかりました。アドバイスありがとうございます」 「僕なら、まず、阿部さんのご主人の仕事仲間に会うな」 「ご主人の?」 「周囲から潰していく」 「あ、なるほど」 「塾の先生には会った? 息子の塾はどこだい?」 「いえ、まだ、そこまでは」 「そもそも、全然見当違いだという可能性もある。ほかの三人の被害者も忘れないように」 「わかりました」 「気をつけて」 「はい」 「自分の思い込みに、気をつけろ、ということ」 「ありがとうございます」小川は頭を下げた。 「じゃあね」  電話が切れた。  溜息。  しかし、どういうわけか、気分は一転して良くなった。少し冷めたコーヒーに口をつける。その苦さも悪くなかった。ブルースは、ややテンポアップした三曲めに入ったところ。  電話をして良かった、と思った。最初から、疑ってなどいなかった。椙田のことは信じていた。それでも、言葉が欲しいときがあるものだ。たぶん、顔を直接見ていれば、きいたりはしなかっただろう。単に声が聞きたかっただけ? もしかして、そうかもしれない。  ああ、なんだか危ないぞ、と思う。  こういった感情は、以前に幾度もあった。そう、ビジネス。まえの仕事の上司だ。今の椙田よりは少し若かった。そして、小川自身も今よりは若かった。  打ち寄せる波のような速さではない。潮の満ち引きのように、ゆっくりとしたインターバルで、ときどき、その感情が押し寄せる。  これは、誰のせい?  と、ふと見上げた夜空に月がある。  あ、そこに浮かんでいたんだね、という気持ちと似ている。  自分の心の中で、浮いている部分があるのだ。つまり、生きることや、仕事のことや、人間関係のことや、そういった目的とは離れている部分。  それが、浮いている。  ぽつんと。  どこへ納めて良いものか、と迷う。  溜息ばかりが漏れて、とにかく、我慢しなさい、と自分を励ます。けれど、我慢って何だ? 何を我慢しているのかさえわからない。何がしたいのか、わからないからだ。  単に、眠りたいだけかもしれない。  ただ、夢を見たいだけかもしれない。  明日になれば、きっと消えてしまう感情。  でも、必ず、いつまでも残っていて、ときどき泡のように膨らむ。虹のように反射をして、たしかに蠢《うごめ》いている、と気づかせる。  そうか、私は、もしかして、そのために生きているのでは、という一瞬の錯覚を見せる。  その一瞬の錯覚は、たとえば、その瞬間には、誰かにナイフを突きつけてその人を殺せるかもしれない、というほど強い。自分だって、簡単に、たぶん一瞬で殺してしまえるだろう。  どうにか、そうならず、  誰も殺さず、  自分も生きていられるのは、  何故だろうか?  これは夢だ。これは非論理的だ。  あるいは、これまでの人生の重さ。  せっかく築いた地位? 財産?  それとも友情?  愛情?  違う、そんなものはどうだって良い。  たぶん、生きたい気持ちと、生きたくない気持ち。  その葛藤《かっとう》だろう。  寂しいとは思わなかった。良いじゃないか、一人で幸せに生きていこう、という言葉を思いついた。それを思いついただけで、笑いたくなるほど虚《むな》しかった。  立ち上がり、両手を伸ばして、背伸びをする。  さあ、もう今日は帰ろう。なにか、ちょっと奮発して、美味しいものでも食べにいこうか。  しかし、そのとき、電話がテーブルの上で振動した。  慌てて、彼女はそれを掴む。相手は非通知だった。 「もしもし、小川です」 「あ、小川さん? 私、阿部です。今、よろしいですか?」 「はい、大丈夫です。何でしょうか?」 「もうお仕事は、よろしいの?」 「ええ、もうそろそろ帰ろうと思っていました」 「椙田さん、いらっしゃる?」 「いえ、私一人です」 「そう……。どうしようかな。あの、実は、ちょっと緊急にご相談したいことがあるんです」 「どんなことでしょうか?」      3  外は雨が降りだしていた。鷹知は、五時に川戸道久と会う約束だった。場所はいつもと同じ、D建設の彼の部屋である。ビルの中に入り、エレベータで上がる。川戸の部屋に入ったとき、僅かな香りがした。フルーツのようだった。 「どう? もしかして、忙しい?」川戸が椅子に座りながらきいた。「電話がなかなか繋がらなかったから」 「いえ、そんなことありません。たぶん、地下にいたんだと思います」そう答えたのはある程度本当で、実は、別件の張り込みで圏外にいたのである。「そろそろ、ご報告をしないといけない、と思っておりました」 「駄目か?」 「ええ……、結論が出るようなところまでは」鷹知は頷いた。「ご期待に添えなくて申し訳ありません」 「なにか重要な手掛かりでも、得られなかった?」 「もちろん、進展はしています。たとえば、都内で最近起きましたある殺人事件が、この切り裂き魔と関連があることが、私どもの調査で判明しました」 「殺人事件? え、ついに誰か乗客が死んだのか?」 「いえ、電車で切られて死んだのではありません。申し訳ありませんが、かなりプライベートで、その、微妙な情報を含んでいるため、事情を全部はお話しできませんが、四人の被害者を結びつける一つの共通項が明らかになって、そこを調べておりましたところ、その共通点に位置する人物が殺されたのです」 「ええっ、それは、また、凄い展開だな」川戸は仰け反るようにソファの背にもたれかかった。「何だぁ? となると、被害者は無作為に選ばれていたわけじゃなかったのか?」 「そのとおりです。個人的に狙われた四人でした」 「信じられん」川戸は、息を吐く。「もしかして、私も狙われたとか? その共通項に、私は入っているのかね?」 「いえ、それはありません。川戸さんは、たまたま、とばっちりを受けたのだったと思われます」 「私が犯人だと指さしたあの女も、単なる勘違いだったということか?」 「ああ、はい……、たぶん」鷹知は頷いた。「なにか、その後、思い出されましたか?」 「何度も思い出そうとしているんだ。目を瞑ってね。駄目だね、思い出せるのは、私を指さした女のことだけだ。声も、なんとなく思い出せる。でも、色メガネをかけていたし。スカーフを巻いていたし……、人相はよくわからない」 「そうお聞きしました」 「ただね、ふと思ったんだが、もしかしたら、女ではなかったかもしれない」 「え、男が女装していたということですか?」 「そう。だとしたら、小柄な奴だが」 「しかし、声が……」 「それも、もしかしたら、男だって出せるかもしれない」 「もし、そこまで偽装したのならば、それはつまり一般の人間ではなく、犯人の可能性が高いですね」鷹知は言う。「ただ、犯人が何故、川戸さんを陥れようとしたのか、ですが……」 「混乱に紛れて逃げるつもりだったんじゃないかな。自分がやったことが、ばれたかもしれない、と心配だったから」 「なるほど。その人物は荷物は持っていましたか? バッグかなにか」 「どうだったかな」 「大きな荷物を抱えていませんでしたか?」 「いや、それはない。目立つようなものは持っていなかった、と思うが」 「立ち去るところを見ていましたか?」 「途中までは」 「背格好は?」 「女だと思えた、そのときは、もちろん、疑ってもいなかったからな……。そう、あまり確信はない」 「その日は、雨でしたか?」鷹知は別の質問をした。今日が雨だったからだ。 「ああ、えっと、まだ降ってはいなかったが、今にも降りそうだったから、傘を持っていた」 「その女性は傘を持っていましたか?」 「ああ、そうそう。持っていた。うん、片手に持っていたよ。その傘で、私をこう突きつけるように、さしたんだ。この人だって」 「どんな傘でしたか?」 「いやあ、そこまでは……。白っぽかったように思うが。透明だったかもしれない」 「近くに誰かいませんでしたか?」 「そりゃあ、沢山いたよ」 「その女性に連れがいなかったか、という意味です」 「どうかな。一人だったように思うがね」 「ところで、失礼ですが、川戸さん今、香水ですか? 整髪料ですか? なにかつけていらっしゃいますね」 「ああ、匂うかね?」 「いえ、微《かす》かにです」 「湿気が多いからかな」 「そうかもしれませんね」      4  小川令子は、事務所から表通りへ出て、タクシーを拾った。雨が降り始めていたが、彼女は傘を持っていなかった。今のところは小降りなので、びしょ濡れになるほどではない。ラッシュで道が混雑し始めている。阿部雪枝とは、JRの駅で待ち合わせることになった。既に彼女はそこにいる。道が空いていれば二十分で行ける距離だった。  約束の場所が駅だったので、少しほっとしていた。阿部の家へ行くとなれば、自分一人では心配だ。真鍋は大学へ行ってしまったし、椙田はいないし、そうなると、鷹知を呼び出すしかないが、別の調査で時間を取られていると話していたので、多少気が引けた。指定の駅は、自分もよく知っている場所だったし、人が大勢いる賑《にぎ》やかなところだ。一人でも心配はないだろう、と思い、鷹知にも連絡をしなかった。  広い駅の改札口前。大勢の人が行き交う。太い柱の側に、阿部雪枝の姿を見つけた。派手な水色のコートだった。 「どうも、お待たせしました」小川は駆け寄った。 「すみません。突然」阿部も頭を下げる。 「どこで、お話をしましょうか?」小川は辺りを見回した。座るような場所はない。あっても、満席だろう。喫茶店にでも入るか、と考える。 「あの、ちょっと用事があるので、電車に乗って、そこでお話ししたいと思います」 「え、どちらへ?」 「今日は、息子が塾の特別講習で、いつもと違うところへ行っているので、そこまで迎えにいくんです。まだ……」阿部は片手を上げて時計を見た。「時間に余裕はありますけれど」 「わかりました。では、ご一緒します」  駅の構内を歩く。途中でエスカレータに乗って地下へ。大勢の人間が移動している。話し声も方々から断片的に聞こえる。アナウンスの濁った声も届く。それらが混じり合う。吐く息も体臭も空気に混じり合う。蒸し暑い。触るものはすべて湿っている。べたべたしている。  改札口を通り、またエスカレータに乗った。一列になる必要があり、阿部がさきに、あとから小川はついていく。  ホームに降り立つと、生暖かい風が小川の前髪を持ち上げた。電車は既にホームに停まっている。ドアがちょうど聞いたところだった。アナウンスが行き先や停車する駅名を告げている。二人は車内に入り、車両の一番端のシートに並んで座ることができた。 「ああ、良かった。座れましたね」小川は言う。 「タイミングなんですよね。でも、すぐに満員になりますよ」阿部が言った。  この路線の電車に乗るのは久しぶりだ。あまり利用しない区間である。つぎつぎに人が乗り込んでくる。まだ発車まで五分以上あるようだ。 「あの、実はね、お話ししたいのは、切り裂き魔のことなんですけど」阿部は小川の横から、耳もとに囁くように話した。ほかの人間に聞かれる心配はないだろう。小川は黙って頷く。「私の家のゴミ箱にね、変なメモがあったんです。たまたま見つけて、くしゃくしゃになっている紙が、どうも見慣れないものだったから、気になって、広げてみたら、そこに絵が描いてあったの。鉛筆でね。なんていうのか、機械? ほら、レオナルド・ダ・ヴィンチが発明したみたいな感じのスケッチ」  小川は頷く。こちらが話をするには、阿部の方へ顔を向ける必要がある。今は、小川は前を向き、阿部が横を向いてしゃべっている。送信と受信の役目が明確だ。雑音の多い環境で、これは確実な方法だった。  内容は、既に佐久間医師から聞いた話だ。自分はそれをもう知っている。しかし、彼女にはもちろんそんな素振りは見せられない。知らない振りをして、聞かなければならない。しかし、これでもう、このことについて質問ができる。その点は嬉しかった。 「それ、どんな機械だったかというと、全体的には、四角くて、真ん中に、レールみたいなガイドがあって、それに沿って動く小さな部分があるの。そこにね、カッタナイフの刃が取り付けてあるわけ。全体には、バネかな、それとも、ゴムかもしれない。片側に引っ張って、一旦固定をしておくでしょう。それを解除すると、バネで元へ戻る。それで、ナイフの刃が一瞬で反対側へ移動するの」 「え?」小川は驚いた顔をつくって、阿部の方へ顔を向けた。「もしかして、切り裂き魔が使ったかもしれない、ということですか?」  阿部は頷いた。 「そのスケッチは、どうしましたか?」  阿部はまた片手を自分の口もとに当てる。内緒の話をする、というジェスチャだ。小川は前を向いて、彼女に耳を貸した。 「そのときは、もうびっくりしてしまって、それをすぐに捨ててしまいました。ちょうどゴミを出す日だったから、そのまま捨ててしまって。だから、実物はありません。だから、あとで思い出して、絵を描いてみたの」  そう言うと、阿部はバッグから折り畳んだ一枚の紙を取り出した。手渡され、小川はそれを開いた。  そこには、想像したとおりの絵があった。  あまりにそのとおりだったので、身震《みぶる》いしたほどだ。  佐久間クリニックで見たものよりも、ずっと鮮明で、しっかりとしている。まるで何度も練習をしたように、洗練された線だった。近くにいる乗客に見られないよう注意をした。しかし、誰もこちらを見てはいない。小川の隣に座っている老人は、膝に荷物を置き、その上で雑誌を広げていた。  ドアの付近には、もう人がいっぱいである。シートの間の通路は、まだそれほどでもない。ホームの時計が見えた。発車まであと三分ほどだ。 「どう思う?」阿部がきいた。 「これを、警察に知らせるべきだと思います」小川は答えた。 「でも、鷹知さんと小川さん、調査を依頼されているのでしょう? ということは、料金をもらって、犯人を見つけることを請け負ったのでしょう?」 「それはもちろんそうです。でも、この絵だけでは、犯人は割り出せませんし」 「どうして?」 「え?」小川は驚いて、阿部の顔を窺った。 「だって、絵を描いて、私の家のゴミ箱に入れたんですよ。これって、それだけでもう、かなり狭い範囲に絞られるんじゃない?」 「それは、ええ、そう思います。誰なのか、もしかして、心当たりがあるのですか?」  阿部は数秒間、小川を見つめたあと、頷いた。 「誰ですか?」小川はきいた。  大勢が車内に入ってきた。人が移動し、小川たちの前にも人が立った。釣り革に掴まっている。仕事が終わったビジネスマンだろうか。濡れた傘を持っている者が多く、電車の床はところどころ濡れていた。湿った空気が生暖かい。 「私、とにかく、困っているんです」阿部が、小川の耳もとに囁いた。声が高く、震えているようでもあった。「もう、どうして良いのかわからないの。でもね、これ以上、このまま放っておくわけにもいかないし。ね、そうでしょう? そう思って、貴女《あなた》に相談することにしました」  何だろう、もしかして、家族の誰かが犯人だと言っているのだろうか。小川はそう考えた。ここはしかし、なるべく口を挟まず、とにかく阿部の言葉を聞き逃さないようにしよう。  発車のベルが鳴った。まだ大勢が乗り込んでくる。ドア付近は押し合いになり、押し込まれるように車内の奥へ人が移動する。もう掴まることができる釣り革も残っていない。  ドアが閉まったようだ。電車はモータ音を唸らせて、走り始めた。続いて、車掌のアナウンスが流れるが、何を話しているのかはほとんど聞き取れなかった。トンネルの闇の中を電車は加速していく。 「これは、誰にも言わないでほしいの。お願い。約束してもらえます?」阿部が耳もとで囁いた。しかし、口調は今までよりも幾分しっかりとしたものに変化していた。電車の走行音のため、周囲はノイズで包まれ、彼女の声は小川の耳にしか届かない。自分だけが聞いている、と小川は意識した。しっかりしなければ。聞き逃してはいけない、と思うと、つい、阿部の方へ躰を寄せてしまう。  小川は黙って頷いた。約束しなければ、話してはもらえない。約束どおり、黙っていられる自信はない。特に、犯罪をおかした人間がいるのなら、それは罰せられなくてはならない。そう考えていたが、今は頷くしかないだろう、と思った。 「私は、四人めの被害者ではありません」阿部が言った。 「え?」小川は声を出した。  しかし、その声は騒音に掻き消された。  横を向き、阿部の顔を見た。彼女は小川を見つめていて、黙って頷く。自分の言っていることは本当なのだ、という仕草であろう。 「どういうこと……」という言葉が漏れる。  しかし、阿部がまた口を近づける。小川は前を向き、耳を傾け、集中した。 「私が襲われれば、疑いがかからないと思ったの」  そう聞き取れた。  小川は我慢ができなくなって、また顔を阿部に向ける。そして、片手を口に添え、声の行き先をコントロールして、阿部に尋ねた。 「誰の疑いですか?」  もちろん、それは、阿部の夫、阿部茂晴か、あるいは、もしかしたら、息子の阿部和輝だろう。  阿部は下を向いて、答えなかった。考えているのだろうか。  口を片手で押さえていた。  彼女の躰の振動が伝わってきた。  電車が揺れる振動とは、波長が違う。  阿部が泣いているのか。小川はそれに気づく。  目に涙が。  困ったな、と小川は思った。こんな場所で泣かれても。  しかし、話していることは極めて重大な問題だ。  もし、真実だとしたら……、どうしよう?  どう対処すべきか。  そして、  今、彼女に、何を言ってやれば良いだろうか。  小川の頭もパンクしそうだった。なにも言葉が出てこない。  とりあえずは、励ますしかないのだろうか。  彼女は、阿部の耳もとに口を近づけて、囁いた。 「話していただいたこと、とても感謝します。ご主人ですか? それとも、息子さんですか? いえ、いずれにしても、早く手を打った方が良いと思われます。つまり、治療が必要だという意味です」  阿部が僅かに視線を上げる。涙に滲《にじ》んだ目で、小川を捉えた。  彼女が話そうとするので、また耳を貸した。 「私にもわからないんです」阿部の声は震えていた。「でも、主人か、息子のどちらかです。私が、佐久間先生のところに通っているから、佐久間先生のことを好きになってしまったから、それが気に入らないのだと思います。それで、あんなことをして、私に警告をしたんだと思うの。だから、とにかく、なんとかしてやめさせなければ、と思って、自分で背中を切ってから、電車に乗ったんです」  言葉が途切れた。小川は阿部の顔を見た。下を向き、口に手を当てている。髪に隠れ、ほとんど表情はわからなかった。  電車は走り続けている。一度、明るいホームを通過した。まだトンネルの中のようだった。      5  鷹知は、D建設のビルを出たところで、小川令子に電話をかけた。しかし圏外なのか繋がらない。諦めて、歩き始めたとき、電話が鳴った。てっきり小川からかかってきたと思ったが、モニタを見ると、そうではない。 「もしもし、鷹知です」 「あの、佐久間です」 「あ、どうも、先生、お世話になっております」 「今、いいですか?」 「はい、大丈夫です」 「実は、急なことなんですけど、明日から、旅行に出ることになったんですよ。それでですね、今、診療所の方へ久しぶりに来てみたんです。手紙が溜まっていると思って」 「はい」佐久間がクリニックでの診察を休んで、自宅にいることは、聞き及んでいた。今日の午後、小川が真鍋と一緒に訪ねていったはずである。 「そうしたら、留守番電話に、その、阿部さんの伝言が入っていて……」 「阿部さんですか?」 「そう、阿部雪枝さん。その、よくわからないが、私に会いたいという内容ですね。それが三回も。それで、その最後のメッセージは、少し怒っているのか、えっと、先生がそのおつもりならば、小川さんにすべてばらしてしまいますよって、言ってるんです」 「小川さんに?」 「そうです」 「あの、何をばらすんですか?」 「それがわからない。何でしょう。僕を脅《おど》しているみたいなんだけれど、全然、その、身に覚えはないし。まあ、それでとにかく、小川さんに知らせておこうと思ったんです。明日から旅行ですしね。でも、連絡がつかなくて……」 「どこか地下にでもいるんでしょう。わかりました。僕の方から伝えておきます」 「ああ、頼みます。僕は、ちょっと今から外に出ますから、もう、これで」 「はい。どうも、ご連絡ありがとうございました」  電話が切れる。鷹知は、もう一度、小川を呼び出そうとしたが、やはり繋がらなかった。椙田の事務所へも電話をかけてみたが、誰も出ない。そこで、真鍋の携帯電話にかけてみた。 「はい、真鍋です」 「鷹知だけれど、あのね、小川さん、知らない?」 「いえ、僕、今、大学にいるんですけど。小川さんとは、夕方までは一緒でした」 「彼女、どこへ行った?」 「えっと、事務所へ戻るって言っていましたけど。でも、もう帰ったかもしれませんね。佐久間先生のお宅へ二人でいったあとです」 「うん、佐久間先生から、たった今、電話があって、明日から旅行にいかれるって」 「ああ、新婚旅行ですね。そんな話でした」 「新婚旅行?」 「佐久間先生、最近、結婚されたんです」 「へえ……。あ、で、阿部さんが、クリニックの留守番電話に、もう小川さんにすべてばらすぞって、メッセージを録音したんだそうだ」 「阿部さんが、佐久間先生に言ったんですか? 何をばらすんです?」 「先生は心当たりがないって言っている」 「なんか変ですねぇ、阿部さん、椙田さんとつき合っているって、先生に話していたそうですし。それも、あとで小川さんが椙田さんに電話して確かめたら、そんな事実はないって」 「ふうん、そうか……、ちょっと気になるな。わかった、じゃあ、阿部さんに一度連絡を取ってみるよ」  電話を切って、阿部の自宅へ電話をかけてみた。しかし、コールは続いても、誰も出ない。留守のようだ。しばらく待ったが、留守番電話にも切り替わらなかった。      6  郊外へ向かう電車は、ますます混雑度を増している。小川と阿部は並んでシートに座っていたが、前に立っている人の脚が、膝に触るほど接近していた。釣り革に掴まって、なんとか倒れないように圧力を堰《せ》き止《と》めている感じだった。  このままどこまで行くのだろう。話だけを聞いて、適当なところで自分は引き返すつもりだった小川であるが、阿部の話は予想以上に深刻なものだった。すぐに別れられる雰囲気ではない。それに、まだ不明な点も多く、もっとしっかりと問い質したいことばかりだ。ただしかし、こんな人混みの中ではそうもいかない。どうしたものか、と小川は思案した。  振り返って窓を見る。外の景色が横に流れている。ときどき明かりが見える。いつの間にか、電車は地上を走っていた。もう雨は止んでいるようだった。  阿部は下を向いて眠っているように見える。しかし、寝ているのではない。泣いているのだ。彼女の躰の振動でそれがわかる。 「大丈夫ですか? 一度、電車を降りて休みますか?」小川は彼女の耳もとで囁く。  しかし、阿部は小さく首をふって反応した。  夫だろうか、息子だろうか、小川は決めかねていた。夫は、自衛官と聞いていたが、椙田が指摘したように、勤務先に話を聞きにいくべきだった。息子にしても、もっと調べるべきだった。なにもデータがない。警察はそちらの調査をしているだろうか。  電車は減速し始めた。駅が近いようだ。バッグのポケットにあった携帯電話を、少しだけ引き出してモニタを見た。着信が表示されている。調べてみると、鷹知と真鍋だった。今すぐ、かけ直すわけにいかないので、真鍋にメールを送ることにする。阿部と話をしていることと、乗っている電車を書いて送信した。そうしているうちに、電車はホームへ滑り込み、やがて停車した。  空気が漏れる音とともにドアが開く。車内の人間たちが動く。自分ももう降りたい、と小川は思った。このまま立ち上がって、外へ飛び出したい、そんな衝動に駆られた。  駅員のアナウンス。乗ってくる客も多そうだ。 「少し落ち着きましたか?」小川は阿部に優しく話しかけた。  阿部は小さく頷く。そして、顔を上げて、小川を見た。 「私、どうしたらいいと思う?」阿部がきいた。 「まずは、すべてを警察に話すことだと思います。それが、結局はご家族のためになると、私は思います」小川は言葉を選んで話した。 「でも、破滅だわ」阿部は言う。  ドアが閉まり、遅れて電車は動きだす。  アナウンスが車内に流れ、モータ音と、レールを擦る車輪の音がしだいに高くなる。  破滅?  何故? 「大丈夫です。一人で思い詰めることはありません」小川は、阿部の方を向いて話した。自分の声がよく聞こえないほど、騒音に包まれている。「被害者は三人出ていますが、いずれも軽傷です。自首をして、陳謝をすれば、そんな大事にはならないと思います。もちろん、法の裁きは受けなければなりませんが、やり直しはできます。家族として、それを助けていくことの方が重要ではありませんか?」  自分の言っていることは、本当だろうか、と小川は疑った。これは、どれくらいの罪なのだろう?  そうか、  もしかして、  切り裂き魔だけではない?  もしかして、  中野薬局の殺人も?  そう発想したとき、鳥肌が立つほど、背筋が寒くなった。これは、どうしたものか。阿部に問い質すべきだろうか。そう、たしかに、これはきかなければ……。  しかし、阿部の方が話そうとしたので、彼女に耳を向ける。 「中野さんも殺しました」阿部が言った。声が掠《かす》れていたが、たしかにそう聞こえた。  小川の全身が一瞬緊張する。  息を止め、前を見ていた目を、右へ。  ゆっくりと。  隣の阿部を捉える。  髪がかかって、顔は見えない。  つい、周囲を見回した。  誰か、こちらを見ていないか。  誰か、話を聞いていないか。  前に立っている男性。  斜め前の男も。  誰も、気にも留めていないようだ。  阿部が泣いているのに、みんな無視している。  そういう世界。  ここは、無関心と無関係に支配された世界か。  殺した?  誰が? 「本当に?」小川は尋ねた。  阿部はそのまま頭を一度下げた。頷いたのだ。 「どうして?」  聞こえないようだった。  阿部の耳の近くへ口を近づける。 「どうして、それがわかったのですか?」  電車が揺れた。きいきいと音を立てた。カーブのようだ。減速し、駅が近づいてきたことがわかる。アナウンスも流れている。駅名が聞き取れた。知っている駅名だった。 「阿部さん、ここで降りましょう」小川は思い切って提案した。とにかく、今のこの状況はまずい。「静かなところで、ゆっくりと話をした方が良いと思います」  阿部は顔を上げて、小川を見た。そして、小さく頷いた。  JRや私鉄の乗り換えがある大きな駅だった。大勢が降りようとしているのが雰囲気でわかる。小川はバッグを持ち、立ち上がる準備をした。電車は段々速度を落としている。  車掌のアナウンスが流れた。振り返ると、明るいホームが見える。「お出口は左側です」と聞き取れた。向こう側のドアだ。  電車は今にも停まりそうである。小川は立ち上がった。釣り革に掴まった人間が横へ移動する。 「降りますよ。大丈夫ですか?」小川は阿部に手を差し伸べる。 「私もここで、乗り換えです」阿部が顔を上げて言った。もう泣いていない。良かった。大丈夫のようだ。  電車が停まった。その反動で乗客たちの躰が一度揺れる。小川は押されてシートの方へ倒れそうになり、窓の枠に手をついて躰を支えた。ドアが開いたようだ。  一斉に人間が移動を始める。  押し合いながら、そちらへ流れていく。  逆の方向へ移動しようとする者もいる。  男性の背中に顔を押しつけられ、足許を気にしながら、少しずつ前進する。  横を向けない。  阿部はどこへ行った? 「阿部さん?」  ドアが近づいている。  電車の天井を見る。それでしか位置がわからない。  反対側からも人が合流する。  圧力が増す。  息もできないくらいだ。  ドアが近づき、動きがやや速くなった。  そのとき、  背中の一点になにかが当たった。 「あっ」自分の声が漏れる。  そのまま押されて、ホームへ出る。  右も左も、大勢が追い抜いていく。  背中に手を回した。  切られた!  指で探る。  まちがいない。  上着に穴が開いているのがわかった。 「やられた」彼女は呟いた。  電車から離れる。横から人に押されて、倒れそうになった。  どうしよう。悲鳴を上げるか。  阿部さんは?  周囲を確かめる。  どこにも彼女の姿はない。  え?  もしかして、彼女ではない?  ほかの人間にも焦点を合わせる。  誰だ?  彼女の夫か。  彼女の息子か。  同じ電車に乗っていたのか。  大勢が階段の方へ急いでいる。  走っている者もいる。  ナイフを持っているような人間はもちろんいない。  立ち止まって並んでいる人たちも多い。  電車に乗り込む人間の流れから、彼女は離れた。  背中へ手を回して、状況を確かめる。  シャツも切れている。  下着も? 「ちきしょう」舌打ちする。  息が上がってきた。  汗が額から目に。  躰は、外気で冷却されつつある。  遠く、階段の方。  人混みの中を上っていく水色のコートが見えた。  彼女だ、  小川はスタートを切る。全力で走った。      7  階段を上がり、改札の方へ急ぐ。しかし、そちらではない。乗り換えか。ほかのホームへ降りたのだ。一番可能性のあるホームへ向かう。階段を駆け下り、ホームを走る。前方には、それらしき人物はいない。引き返して、反対方向へ。  電車がもうすぐ到着するというアナウンスが流れている。大勢の人間がいた。ホームをすべて確かめるのは無理かもしれない。  それでも、早足で歩きながら探した。  電車が入ってくる。  風が顔に当たった。  背中からも空気が入る。  阿部はいない。  どこへ行ったのか。  やっぱり、改札だったか。  電車のドアが開き、大勢が乗り込もうとしている。  階段の方へ小川は引き返すことにした。  駄目だ。見失ってしまった。  まずいぞ、これは……、とりあえず、警察に連絡すべきだろうか。  でも、彼女と約束した。  秘密は守らなければ……。  しかし、  切られたのだ。  そう、被害に遭ったのだから、この連絡をするのは当然だろう。  電車の中を見ながら歩く。  電車の窓越しに、水色のコートが見えた。  電車のさらに向こう。隣のホームだ。  小川はまた走る。  あれは、どこへ行く線だろう。  階段を駆け上がった。  通路に窓があった。上からホームを見下ろすが、阿部の姿は見えない。  ライトをつけた電車がそこへ入ってくる。  急いで階段の方へ走る。  逆の方向へ人が流れていた。  階段に到着し、そのまま駆け下りる。  既に電車のドアが開いているようだ。アナウンスが行き先を告げている。  階段を上がってくる沢山の人間。  小川はその流れを迂回《うかい》して、ホームへ走り出た。  さきほど阿部がいた辺りを探す。もう彼女はいない。  発車のベルが鳴った。  小川は手近のドアから電車に乗り込んだ。  息が苦しい。  車内は空いている。  都心へ向かう線だからか。  シートが空いていたが、車両の後ろへ移動。そちらの方が人が少なかったからだ。少なくとも、この車両には、阿部は乗っていない。バッグから携帯を取り出した。真鍋からメールが届いていた。  人の少ない電車の隅へ移動して、彼に電話をかけた。 「真鍋君?」彼女は小声で話す。 「あ、どこですか?」 「まだ、電車に乗っているの」 「駄目ですよ、電話かけちゃあ」 「緊急事態なんだって。背中を切られた」 「え、大丈夫ですか?」 「うん、大丈夫」 「誰に切られたんです?」 「それがわからないの。阿部さんを追っているんだけれど、それも今は、ちょっとわからない。見失ったかも」 「小川さん、今、どこですか?」 「えっと、わからない」 「電車の色は?」 「オレンジだった。オレンジ一色の電車に乗り換えたところ。阿部さんは、さっきの駅でほかの電車に乗った可能性もある。外に出た可能性もある」 「わかりました。警察に連絡します」 「お願い。私も探してみるけれど」隣の車両を見ながら、小川は話す。「この電車に乗っているのかなぁ」 「気をつけて下さいよ。もう、放っておいた方が良くないですか? あまり追い詰めない方が」 「とにかく、警察に早く連絡をして」 「わかりました」  電話を切って、後ろの車両へドアを開けて移った。立っている人間は少ない。水色のコートは見当たらなかった。電車は速度を増している。辺りは真っ暗で、街の明かりは遠い。ときどき、高速で白い光が後方へ飛んでいく。  小川は、さらにその後ろの車両へ移った。ここが最後尾である。阿部の姿はない。阿部の夫らしき人間もいない。阿部の息子だと思われる年齢の少年もいなかった。  ということは、やはり前か。彼女は、引き返すことにした。電車の進行方向へ歩き始める。  乗客たちがじっと小川の顔を睨むように見る。変な女だと思われているだろう。そうか、背中が切れているのだ。恥ずかしいけれど、そんなこと気にしている場合ではない。  電車が減速している。駅が近づいてくる。駅名をようやく聞き取ることができた。後ろから三両目に戻ったところで、真鍋にメールを打った。駅名、そして、阿部が見つからないことを最小限の言葉で、簡潔に書く。  電車が停車した。  彼女はホームへ出た。後方を一瞥したあと、前方を注目する。前には、まだ何両も連なっている。降りる者は少ない。ホームにも人はほとんどいなかった。  ベルが鳴る。ぎりぎりまで粘ってから、彼女は一両まえの車両のドアから乗り込んだ。  乗客が全員、彼女に注目していた。顔が見えてむしろ都合が良い、と思う。知らない顔ばかりだ。目が合うと、みんな慌てて目を逸らす。  前方へ歩いた。  いない。  阿部も、阿部の夫も。  黒い制服の中学生がいた。男子だ。  その前に小川は立つ。  少年が顔を上げた。じっと見据える。  似ていない。違うだろう。 「君、名前は、何て言うの?」念のためにきいてみた。  少年は小さな声で答えた。電車の音で、よく聞き取れない。ただ、じっと小川を見つめている。目を見開いている。そして、持っていたスポーツバッグの名札を手で示した。小川はそこに顔を近づける。〈中西《なかにし》〉と書かれていた。 「中西君?」小川はきいた。  少年は無言で頷く。 「ありがとう」  ドアを開けて、さらに前の車両に移る。  また乗客の何人かが小川の方を見た。男性が多い。空いている。立っている客はいなかった。  一人ずつ顔を確かめる。ここにもいない。  男の顔をチェックしていく。  忘れもしない。阿部の家の玄関で見た顔。  しかし、いない。  もっと前か。  それとも、この電車ではないのか。  背中が切れている。  気にしない、気にしない。  しかし、阿部雪枝がもしいたら、どうする?  説得するのか?  何を?  どう?  でも、きかなくては。  真相を確かめなくては。  息子の塾へ迎えにいくと話していた。  こんなところに塾があるのだろうか。  両側の窓の外はどこまでも真っ暗だった。  森林が迫っているわけではない。田園か畑の中を走っている。  近くに建物はない。人工の光は皆、星のように遠い。  そんな遠くの景色が、ゆっくりと後ろへ。  間近では、架線の支柱が等しく次々後方へ飛ぶ。  水滴を残した窓ガラスには、自分の姿が映っている。  シートに座っている乗客は目を逸らす。  ガラスに反射している顔の方が、視線がぶつかる。  いない。  一両を通り過ぎ、ドアを開けてさらに前の車両へ。  まだ、前に数両ある。  新聞を広げている男の顔も、覗き込んだ。  怒った顔で睨みつけられる。  老人は眉を顰《ひそ》めた。  子供が一人いた。親が一緒なので、違うだろう。  いない。  いったい、何を探しているのか、と一瞬思う。  阿部雪枝だ。  水色のコート。  そうか、コートを脱いだかもしれない。  小川は振り返った。全員がこちらを見ていた。  慌てて視線を逸らす顔もある。  しかし、見落とすはずはない。  ドアの窓越しに、前の車両を見る。  水色が見えた。  ドアに駆け寄り、開ける。  彼女だ。  前の車両に入った。  阿部がこちらを見た。  驚いた顔だ。  彼女は、車両の一番前のシートだった。  立ち上がって、前の車両へのドアを開ける。  小川は急いでそちらへ。 「阿部さん」叫んだ。  ドアが閉まり、阿部は前の車両へ。  小川は走った。  ドアの窓。阿部が前の車両を走り去るのが見える。  ドアを開けて、連結部を通り抜ける。  電車が左右に揺れる。  シートの間を走った。  阿部はもう前のドアを開けている。  小川は急ぐ。  走りながら、電話をバッグから取り出す。  ドアへ取りつく。  さきに電話をかける。  リダイアル。 「もしもし、真鍋君」 「はい」 「いた。見つけた。電車に乗っている」 「次の駅は?」 「さあ、わからないけど、えっと、田舎の中を走っている。ずっと走っている」  小川は、近くのシートに座っている男に駆け寄った。 「次の駅はどこ?」  男はびっくりした顔のまま答える。  そのまま、駅名を真鍋に伝えた。  電話を切って、前へ走る。  ドアを開けて、次の車両も駆け抜ける。  次のドアを抜け、さらにもう一両を走る。  次が、一番前か。  一応、乗っている人間をチェックしていく。  いない。  阿部雪枝は、どこに?  ドアのガラス越しに前を確かめる。  一番前だ。次が最後だった。  小川はそこに入る。  電車は少し速度を落とし始めていた。  前方にいる。  水色のコートが立っている。  もう、そこが一番前。  その先には、運転席しかない。  こちらを見ている。  小川は歩いて、近づいていった。  シートに座っている者が数人。  この車両が、今までで一番乗客が少ない。  若い女性が一人。老年の男性が二人。  子供はいない。中年の男もいない。  その前を通りすぎる。  前半分には、彼女以外、もう誰もいなかった。  好都合だ。  小川は前進する。  そして、阿部の三メートル手前で立ち止まった。 「どうしたの?」普通の声で尋ねた。「何故、逃げるの?」 「貴女こそ」阿部は言った。少し笑ったようだ。  歪《ひず》んだ笑顔に見えた。  片手にはバッグを。  もう一方の手にはなにも持っていない。 「落ち着いて。大丈夫。ちゃんと話をして下さい」小川はそう言いながら一歩前に出た。 「近づかないで」 「さっきの話を、警察にして下さい」 「来ないで!」 「わかった。近づかない。次の駅で降りましょう」 「貴女が降りて」 「どうしたんですか? どうして、急にそんなことを」 「あっちへ行って!」 「阿部さん?」 「佐久間先生と会ったでしょう?」阿部は言った。声が濁っている。 「え?」 「佐久間先生の家に行ったじゃない。見ていたのよ。知っているわよ」 「私が?」 「惚《とぼ》けないで!」 「はい、行きましたよ。仕事です」小川はもう一歩近づく。「なにか、勘違いをしているんだと思うわ」 「勘違い?」 「調査のために、佐久間先生に会いました」 「ほら、会ったじゃない」  阿部はにやりと笑った。  おかしい。  普通じゃない。  怯《ひる》んでは駄目だ。  落ち着いて。  大丈夫。  相手は一人。  自分と同じ、女だ。  もう一度、阿部の手を見た。  ナイフがないか。  ゆっくりと呼吸をした。 「私の背中を切ったのは、誰?」小川はきいた。  阿部の顔はさらに笑った。  白い前歯が見える。  彼女は片手をバッグに入れた。  その手を引き抜いた。  カッタナイフ。  小川は後ろに下がった。  呼吸を止める。  阿部が近づく。 「阿部さん」小川は言う。片手を前に出す。「落ち着いて」 「落ち着いてるよ」阿部は笑いながら言った。  駅が近づいてくる。 「ナイフを仕舞って!」小川は大声で言った。ほかの乗客たちに気づかせるためだ。  しかし、後ろを振り返るような余裕はまったくなかった。  目を離したら、危ない。 「よく考えて」優しく言った。  明るい駅が前方に見えてくる。  もう少しで、駅だ。  駅員が近くにいるだろうか。 「まだ、大丈夫なのよ」  今なら、まだ……。  阿部の顔は、笑ったまま、変わらない。  もう、言葉が通じていないかもしれない。 「お願い。落ち着いて」  まるで、自分を説得しているみたいだ。  落ち着け。  よく相手を見て。  小川はじわじわと後退しながら、急いで上着を脱いだ。それを片手に丸めて持つ。ナイフで切りつけてきたときに、防具にするためだった。バッグはシートに投げ捨てた。  もうあまり下がれない。乗客がいる。逃げてくれただろうか。  後ろを一瞬だけ確かめた。  まだいるようだ。動けないのだろうか。  阿部のナイフを見る。どうしても、そこを見てしまう。  それから、相手の足を見た。  落ち着いて。  大丈夫。  なんとか、防がなければ。  止めなければ。  ほかの人が怪我をしたら、自分の責任だ。  そう、その気持ちが強い。  ここまで、阿部を追いかけてきたのは、その気持ちだった。  動いた。  阿部の手の振りが、スローモーションで見えた。  上着を投げつけるようにして、前に出た。  躰をかわす。  膝をついて、前に滑り出る。  阿部がナイフを振り回した、その下。  足を掬《すく》う。  彼女が倒れた。  また、ナイフを振った。  近づけない。  阿部は素早く立ち上がる。  小川は息をついた。  位置が入れ替わったのが、まずかったか。  乗客たちがこちらを見ている。  電車はホームに入った。  外が明るくなる。  乗客の一人、若い女が立ち上がった。駅で降りるつもりだろうか。こちらへ近づいてくる。何を考えているのか。 「危ない!」小川は叫んだ。「離れて」  阿部がそちらへ振り返った。  ブレーキがかかり、前方へ加速度。  ナイフを持った手。  乗客の女は黙ってドアの前に立つ。知らん顔をするつもりか。  阿部がまたそちらを向いた。  小川はその瞬間に突進した。  阿部がこちらを向き、ナイフを真っ直ぐに突きつける。  それを上着の防具で振り払おうとした。  ドアの前に立っていた女が屈み込んだ。  そして、躰を素早く横にして脚を伸ばす。  阿部の足許を蹴った。  阿部がバランスを崩しながら、ナイフを振る。  小川は横へ飛び退いた。  阿部は小川の横を前方へつんのめる。  そこへ、若い女が飛びつき背中に被さるように重なった。  電車が止まる。  床をナイフが前方へ滑っていく。 「ナイフを!」女が叫んだ。  小川はそちらへ飛びつく。  ナイフを拾い上げた。  ドアが開く。 「大丈夫?」小川はきいた。 「人を呼んできて」女が言った。落ち着いた声だ。  小川はホームへ飛び出した。 「誰かぁ!」大声を張り上げる。  電車の中では、阿部の腕を背中に回して押さえ込んでいる女。  ときどき呻《うめ》き声《ごえ》が聞こえる。  助かった、と小川は思った。  駅員が走り寄ってくる。 「どうしました?」 「切り裂き魔を捕まえました」小川が言う。 「え?」 「ナイフは取り上げました」 「切り裂き魔?」  小川は自分の背中を見せる。  さらに、もう一人駅員が走り寄ってきた。彼等は車内へ飛び込んでいく。  乗客も集まり始めている。  霧のように曇った空気が、白く構内に立ち込めていた。 [#改ページ] 第5章 不思議な繰り返し [#ここから5字下げ] 久しく檻《おり》のなかに閉じこめられていたわたしの悪魔《あくま》は、唸《うな》り声をあげながら飛びだして来た。薬を飲みほした刹那《せつな》でさえ、わたしはさらに放埒に、さらに狂暴《きょうぼう》に、悪へ突《つ》っ走ろうとする兆《きざ》しが身内にあるのを意識していた。 [#ここで字下げ終わり]      1  小川は、翌日いつもよりも少し遅く出勤した。既に真鍋がいて、彼女の顔を見るなり、ぱっと顔が明るくなった。 「大変だったんでしょう?」真鍋は立ち上がり、シンクの方へ歩きながら言った。 「大変だったよう」バッグを置き、椅子に腰掛けると、大きな溜息が漏れた。「九時くらいまで駅にいたかな。でも、パトカーで送ってもらっちゃったし」 「へえ、それいいなあ」 「ありがとう」 「え?」 「警察に連絡してくれて。連絡が早かったって、褒められたよ、刑事さんから。よく詳しく位置がわかったわね」 「あの近辺、ときどき、電車に乗りにいったりするんですよ」 「あれ、真鍋君って、鉄っちゃんだったの?」 「いえ、景色が良いじゃないですか。なんか、日本の車窓から、みたいな感じで」 「ふうん」小川は立ち上がって、ソファの方へ移動した。  真鍋がお茶を運んできてくれる。 「結局、どうやって取り押さえたんです? 駅のホームだったんですか?」 「違う違う。えっとね。昨日、もう何回も説明したから、台詞みたいになっちゃったけど、電車の中。駅で停まるまえだったの。阿部さんが、バッグからナイフを出して、私と一対一で向き合ったわけよ。電車の一番前の車両でね。空いていたから、乗客は近くにはいなかった。でも、私の後ろには数人いたから、そちらへ阿部さんが行ったら危ないって考えた。もう、今でも、どきどきする。私って、あんなに勇気があったのね。自分でもびっくり」 「ちょっと待って下さい」お茶をテーブルに置いて、真鍋も椅子に腰を下ろした。「阿部さん、もともと一番前の車両にいたんですか?」 「うんと、私が見つけたら、前へ逃げていったの。だから、一番前のところで、追い詰められたわけ」 「ああ……」 「だから、ナイフが出てきたときは、まずいって思ったのよ。私が追い詰めたからじゃない、これって。やっぱり、責任感じちゃったのね。だから、もう少々怪我をしたって、なんとか止めなければって……」 「そのまえに、背中を切られたって、言ってましたよね」 「そうよ。上着もシャツも、切れてた」小川は、躰を捻って、背中に手を回す。「そのときは、自分では見えなかったけれど、格好悪かったわぁ」 「怪我は、なかったんですか?」 「まあね」 「それは、ラッキィでしたね」 「うん」小川はお茶に手を伸ばして、それを飲んだ。「まあ、この際だから、君にも感謝の気持ちを言葉にしておこうかな」 「何ですか、それ」 「あれを填めてたの、私」 「填めてた?」 「だから、君が作ったプロテクタ」 「えぇ!」真鍋の顔が十センチくらい高くなった。「うっわ、本当ですかぁ?」 「うん、言いたくなかったけどね」 「どうして、言いたくないんですか?」 「もうね、とにかく、それで助かったってことが、死ぬほど恥ずかしい」 「恥ずかしくないですよ。用意周到っていうんじゃないですか」 「駅でさ、トイレの中でこっそり外したんだから」 「えぇ!」 「だから、警察の人にも話してないから。君も心に秘めておくのよ。絶対に誰にも言っちゃ駄目だからね」 「どうしたんですか、外してから」 「捨てた、ゴミ箱に」 「えぇえ!」真鍋はまた躰を揺すった。「なんてもったいないことを」 「だから、感謝しているって言ったでしょう。ありがとう。君のおかげで助かりました」 「あぁあ、もったいないなあ。記念に取っておけば良かったのにい」 「何の記念よ?」 「だって、犯人を取り押さえたんですよ」 「まあ、でも……、あれがなくても、怪我はしなかったかもしれないし」 「下着は切れてなかったんですか?」 「え?」小川は眉を寄せて真鍋を見た。 「どうなんです?」 「ノーコメント」 「うーん、想像しちゃうなあ」 「するな」 「阿部さんと戦うとき、プロテクタを前面に回せば良かったのに」 「できるか、そんなこと」 「できませんか?」 「話を変えよう」小川は脚を組み直した。「何の話だったっけ、えっと、そうそう、私ね、上着を脱いで、それでナイフの攻撃を避けようとしたのよ」 「へえ、凄いですね。まあ、どうせ背中が破れた服ですからね。もったいなくなかった」 「そういう考えじゃなかったと思うけどね」 「それで、果敢に立ち向かったわけですね?」 「そうよう。自分にあんな勇気があるなんて思わなかった。必死だったんだから」 「やっぱり、小川さんくらいの歳になると、肝っ玉が据わってきますよね」 「そういうこと言うな」小川は自分の膝を叩いた。  真鍋がにっこりと笑う。 「なんていうか、相手の動きが見えたのよ。これ、本当に、そうだった。ナイフを振って、突進してきたのを、上着をぶつけて、横へ避けて……。でも、そうしたら、位置が入れ替わったわけ。私が電車の前で、阿部さんが後ろになったの。そちらには、乗客がいるでしょう。えっと、おじいさんが二人と、あと若い綺麗な女の子」 「うわぁ」 「でね、これはまずいって考えた。ただ、あともう少しで駅なわけ。電車は停まりそう」 「ドアが開くまで待って、外へ逃げようと考えた」 「全然違う」小川は首をふった。「それより、その女の子がね」 「乗客の?」 「その子、シートから立ち上がって、こちらへ近づいてくるわけ。ドアのところまで来たの。駅で降りようとしているみたいだった」 「ひえぇ」 「無関心っていうか、知らん顔しているわけ」 「まあ、単なる酔っ払いの喧嘩だと思ったのかも」 「絶対そんなふうに見えないと思うよ。女が二人で、向かい合って、一人はナイフを持っているんだから」 「見えなかったとか、ナイフが」 「私、危ないって叫んだわよ。離れてって。そうしたら、阿部さんも振り返って、そっちを見たわけ。もう、このチャンスを逃したら駄目だと思って、咄嗟に、私、彼女に飛びつこうとした。でも、阿部さんもすぐこちらに切りつけてきた。で、上着でそれを遮って、シートの方へ避けた」  小川はそこで言葉を切って、お茶を飲んだ。 「凄いですね」真鍋が言った。「アクションですね」 「凄かったよう」小川は頷く。 「で、どうなったんですか?」 「その女の子がさ、突然、阿部さんの脚を蹴ったの」 「は?」 「あれは、なんかきっと、武道をやっていたんだと思うな。屈んで、低い姿勢になったかと思ったら、脚をひゅっと伸ばして、キックよ」 「へえ」真鍋は口を開ける。「ストリート・ファイタですか」 「それで、阿部さん、がくんって体勢が崩れて、床に倒れたわけ。ちょうど、電車が停まったから、私の方へ倒れてきたのね。私ね、シートの上に飛び乗ってた、土足で……」 「凄いなぁ」 「倒れた阿部さんに、その女の子がさっと飛びついて、あっという間に、阿部さんの腕を掴んでさ、背中に回してねじ上げて。もう、もの凄い唸り声上げたんだから、彼女」 「え、その女の人がですか?」 「違うわよ、阿部さんが唸ったわけ。痛いから」 「あ、そうかそうか」 「でね、ナイフが床に落ちていたから、早くそれを拾えって、その子が言うから、私が拾ったの。ま、そんな感じで、一件落着」 「ふうん、なんだ、じゃあ、小川さんは助けられた方じゃないですか、その人に」 「まあ、見方によっては、そうだね」 「誰が見ても、そうですよ」 「それから、駅員さんが来て、そのうち、警察の人たちも大勢来て」 「その女の人は?」 「電車がちょっとだけ遅れて、発車したんだけれど、それに乗っていっちゃった」 「えぇ?」 「うん、じゃあね、みたいに笑って」 「うわぁ、格好良いですね、萌えますね、そういうの」 「何が燃えるの?」 「メガネかけていませんでしたか?」 「ううん」 「あ、ちょっと残念」 「どうして?」 「名前ききました?」 「いいえ」小川は首をふった。「だって、知っている顔だったから」 「は? 知り合いだったんですか?」 「いえ、知り合いってわけじゃないけど」 「誰なんです?」 「向こうもね、私の顔を知っていたの。あらら、みたいな感じで」 「ちょっと、話わからないですよ、小川さん」  ドアがノックされた。 「はあい」小川が返事をする。  鷹知祐一朗が顔を覗かせた。 「あ、おはようございます」真鍋が挨拶する。 「どうも」鷹知が中に入ってきた。「小川さん、大丈夫だった?」 「ええ、なんとか。大丈夫ですよ」 「明日くらい、躰が痛くなるんじゃないですか?」真鍋が言った。 「そうなんだよね、この頃ねぇ、翌日じゃなくて……」小川はまた自分の膝を叩いた。「こら、言うな、そういうの!」      2 「とにかく、良かったね。解決して」鷹知は片手を小川の前に差し出した。「ありがとう。良い仕事だった」  小川は立ち上がり、鷹知と握手をした。 「そうか、仕事だったんだぁ」彼女は笑った。「あ、川戸さんには?」 「電話はしておいた。もの凄く喜んでいたよ。明日の夜、一緒に食事をどうだって誘われているけれど、小川さん、大丈夫? 時間は」 「あ、はい。大丈夫です。でも、レポートとかは……」 「そんなの、また後日で良いと思う。なにしろ、これ以上の結果はない。犯人を直接捕まえたんだからね」 「ラッキィでした」小川は頷く。 「やるべきことをやった結果だと思うよ」 「僕も、少しは貢献したんですよ」 「言うな、それ」小川は真鍋を睨みつける。プロテクタのことにきまっている。 「いや、そうそう、真鍋君にも、ちゃんとお礼を考えておくから」鷹知は言った。 「やったぁ」真鍋が両手を広げて笑顔になる。「お礼っていうのが、大好きなんですよ、僕」  彼は、シンクの方へ歩いていく。鷹知にお茶を出すつもりなのだろう。 「今日は、椙田さんは?」鷹知がきいた。 「さあ、たぶん来られないと思います。電話はかけたんですけれど、ちょっと連絡が取れないところにいるみたいで……」小川は説明する。「鷹知さん、警察へは、行ったんですか?」 「今朝、鈴木刑事と会ってきた」鷹知は話す。「中野薬局の件で、阿部さんにきいているそうだ。今のところ、五分五分じゃないかって。ただ、中野孝司氏と阿部さんの間に、かなり緊密な関係があった可能性は高いらしい」 「どうしてそんなことが?」 「たぶん、髪の毛か、そんな、遺留品じゃないかな。これから、DNAの検査をするって話もしていたし」 「もしそうなら、自供すると思うわ、彼女」 「うん、僕もそう思う。そもそも、動機は何だったんだろうね。切り裂き魔といい、中野薬局の事件といい」 「それ、私も、ずっと考えているの」小川は話した。「結局、あのとき、電車で阿部さんが言ったことが、全部本当だと思えて……」 「どんな話?」 「阿部さん、佐久間先生に好意を寄せていて、自分のことに興味を持ってほしかったんじゃないかしら」 「それで?」鷹知が首を傾げる。「それで、ほかのクライアントに怪我をさせたわけ? どうやって、ほかの人のことを知ったんだろう?」 「うーん」小川は天井を見上げる。 「それは、張り込みですよ」真鍋は部屋の隅で、お茶を淹れている。「たぶん、佐久間クリニックを張っていたんですよ、ストーカみたいに」 「そうそう。私たちが、佐久間先生の自宅へ行ったことも知っていたの、阿部さん」 「あ、だから、小川さんも狙われたんだ」鷹知が言った。「つまり、邪魔者に対する警告の意味だったのか。私の佐久間先生に近づくな、っていう」 「うーん、そんなメッセージ、誰にも伝わらなかったと思うけれど」小川は肩を竦めた。 「それよりも、佐久間先生が、その話をすることを期待していたのかもしれません」真鍋が言った。「とにかく、共通の話題がほしかった。二人で話せるじゃないですか。なんとなく、そういうのわからないでもないですよ、僕」 「ああ、真鍋君、オタクだからね」小川は頷いた。 「ずばり言わないで下さいよ」真鍋は口をとがらす。「子供か夫が犯人かもしれない、というのも、クリニックでの話のネタとして、持っていきたかったわけですよ。相談して、同情してもらいたい、それで佐久間先生の気を引こうと。だから、切り裂きマシンのスケッチの話もでっち上げたわけです」 「そう、あれも嘘だったわけだ」鷹知が言った。  真鍋が鷹知の前にお茶を運んできた。 「あ、ありがとう」 「僕、あとで気づいたんですけど」真鍋はソファに腰掛けてから話した。「佐久間先生からその話を聞いたの、月曜日だったでしょう? 阿部さんがゴミ箱でスケッチを見つけたのは、その前日だった。だとすると、阿部さんの家の付近、ゴミの日が日曜日ってことになるじゃないですか。清掃局は日曜日には仕事はしませんよね」 「そういえば、ああ、そうか」小川は頷いた。「えっと、じゃあ、あのマシンも、阿部さんのまったくの作り話ってことになるわけ?」 「たぶん、そうでしょう。それとも、もしかしたら、盗み聞きされたのかも」 「え?」小川は驚いた。そして、ドアの方を見た。「ここで、話したんだっけ?」 「小川さん、声が大きいから」 「私? そうかな」 「たしか、あのとき、音楽もかけていなかったし」 「いやだぁ。気持ち悪いよぅ」 「筋金入りのストーカだったんですよ」真鍋が言う。「探偵の素質はあったかもですけど」 「そうなんだぁ」小川は頷いた。 「いや、まだ、わからないよ」鷹知が言った。「本人の話を聞いてみないとね。今のは真鍋君の想像だ。だって、もしかしたら、本当に旦那さんか、息子さんが絡んでいたかもしれないし。その可能性だって、まだ否定されたわけじゃない。現実はもっと複雑かもしれない」 「充分複雑ですよね」真鍋が微笑む。 「そうかぁ……」小川は溜息をついた。「全然、解決していないんだね、まだ」 「そう。特に、中野さんを殺したのは、ちょっとまだ想像ができないなあ」鷹知は言った。「思い込みだけで、人間ってそこまでできるものだろうか」 「私にはできない」小川は首をふった。「でもね、電車で見た阿部さんは、たしかにそれができそうだったと思う。そんな力強さはあったもの。人間って、わからないよねぇ、本当に」 「中野さんと親しくなって、彼を通じて、クリニックに通っている女性のことを突き止めたのかもしれないし」真鍋が話す。「それとも、そもそもそれが目的で、中野さんを誘惑したのかもしれないし」 「そうね」小川は頷く。 「で、それを、鷹知さんと小川さんに突き止められた、と思ったから、これは危ないと考えて、中野さんの口を封じた、という推論も成り立ちます」 「もしそうだとしたら、私たちのせいで中野さんが亡くなったことになるじゃない」小川は顔をしかめる。「考えたくないなぁ、そういう方向へは」 「こればっかりは、しかたがない」鷹知が低い声で言った。「調べるだけで、波風が立つものなんだ。これまで均衡を保っていたものが、ちょっとしたことで動きだすことがある。誰のせいでもないよ。雨がふって、土砂崩れが起こるようなものだ。雨のせいではない。もともと、そのポテンシャルがあったものが、動きだすだけなんだ」 「なんか、そう考えると、辛い仕事ですね、探偵って」また溜息が漏れる。 「でも、明日は、ご馳走が食べられるよ」鷹知が言った。 「良いなあ」真鍋が小声で呟いた。 「真鍋君には、私が、今度奢ってあげるから」小川は微笑んだ。 「え? 本当ですか? あ、やっぱり、あれのおかげだったからですね?」 「言うな」口は笑ったまま、小川は真鍋を睨みつけた。 [#改ページ] エピローグ [#ここから5字下げ] わたしは日当りのいいベンチに腰《こし》をおろした。わたしの獣性《じゅうせい》は、過去の歓楽の思い出に舌なめずりしているのであった。精神的な面は、やがて後悔することは感じながらまだ動きだそうとはせずうとうととまどろんでいた。 [#ここで字下げ終わり]  その後も、小川は警察に二度足を運んだ。そのたびに、阿部雪枝の様子を尋ねた。中野薬局の事件についても、少しずつ供述しているらしい。警察は、一連の犯行は彼女がたった一人で実行したものだ、という見方を強めているようだ、と小川には感じられた。それ自体、彼女には信じられないところではある。けれど、人間の可能性とは、そもそも小川が信じている範囲を大きく超えているものかもしれない。そんな予感を持ったことは、もう数え切れないほどあるのだ。  事件解決から数日後、小川はW大の図書館へ向かった。これは用事があったわけではない。椙田と一度一緒に来たことがある場所だった。椙田にはその後まだ連絡がつかない。もしかしたら、また海外へ出ているのかもしれなかった。初めてのことではないので、心配はしていない。そのうち連絡があるはずである。  図書館の係員は、小川のことを覚えていた。 「このまえ、私たちが来ていたとき、ここへ登録に来られた新任の先生がいらっしゃったでしょう?」小川は係員の女性にきいた。「あの、若い綺麗な方で」 「ああ、はい、西之園《にしのその》先生ですね」 「そう、その方にお会いしたいんです。どこの学部ですか?」  その建物へ向かった。ロビィを入り、学科の事務室を訪ねて、そこでまた、部屋の位置をきいた。 「今日は、いらっしゃいますか?」 「えっと……、ああ、もうすぐ授業が終わるところですね」事務員が壁の時計を見て、教えてくれた。  階段を上がり、目的の部屋へ。ドアをノックしたが、反応がない。鍵がかかっている。小川はその場で待つことにした。  通路の反対側には窓が並び、明るいキャンパスを見下ろすことができた。今日は日差しが暖かい。これから、どんどん暑くなっていくのだろう。  正面には別の建物があって、そのピロティから、白いスーツの女性が現れた。こちらへ歩いてくる。すぐに、彼女だとわかった。学生らしい女子が二名、走り寄ってきて、彼女を呼び止める。なにか話を始める。学生は頷いて頭を下げた。彼女はまたこちらを向いて歩き始めた。颯爽《さっそう》とした歩調で、まっすぐ近づいてくる。一度樹の枝に隠れ、また現れる。そこで、顔を上げてこちらを見た。窓から覗いている小川を目に留めたようだ。見えただろうか。  しばらく待つ。階段を上がっているのだろう。窓の外では、賑やかな声が上がる。あっという間に大勢の若者で溢れ、方々へ移動していく流れが見えた。羊の群のようである。やがて、通路の先に彼女が現れ、こちらへ近づいてきた。  五メートルほどの距離になったとき、彼女は微笑んだ。小川は頭を下げた。 「こんにちは」西之園は言った。「やっぱり、いらっしゃいましたね」 「はい。お礼を申し上げたくて」小川は言う。「先日は、本当にありがとうございました。おかげで怪我をすることもなく、それに、事件も解決、私の仕事もうまくいきました」 「お仕事?」西之園は小首を傾げる。「どんなお仕事です?」 「調査をしておりました。切り裂き魔の」 「そうなんですか。それでは、お手柄だったわけですね?」 「それも、すべて西之園先生のおかげです」 「いえ、それは違います」彼女は首を小さくふった。「私はたまたま、その場に居合わせただけです。誰だって、あの場にいれば、貴女を助けたと思いますよ」 「いえ、なかなか、そんなわけには……。あ、あの、お時間は、よろしかったでしょうか?」 「ええ、そうですね……。どうぞ中へ」西之園は、鍵を差し入れてドアを開けた。「通路で話すには、少々不適切な内容ですものね」  部屋の中に入り、西之園は奥のデスクへ行く。持っていた本などを置き、こちらへ戻ってきた。黒い革製の椅子が並んでいるスペースへ案内される。細長い部屋で片側の壁には、古風な木製の書棚が並んでいた。  電話が鳴った。「ごめんなさい」と言ってから、西之園はデスクへ戻り、それに出た。 「はい、ええ、今、いらっしゃっています。どうもありがとう」受話器を置き、再びこちらへ。  彼女に促され、小川はソファに腰を下ろした。西之園が対面の椅子に腰掛ける。上品な仕草だ、と小川は評価した。いくつだろう、まだ学生と変わらない年齢に見える。ストレートの髪は長く、片方の襟《えり》を隠していた。着ているもの、身に着けているものも一流品。発声や話し方から育ちの良さが窺《うかが》い知《し》れる。  小川は名刺を渡して、改めて自己紹介をした。 「このまえ、図書館にいらっしゃったから、この大学の方かと思っていました」 「いえ、図書館を利用しているだけです」 「美術品関係なのですか?」名刺を見ながら、西之園がきいた。 「はい、そのほかにも、各種の調査を」 「今回の仕事も?」 「はい、調査です」 「探偵社みたいなものですか?」 「はい。一応。私自身は、まだ駈け出しです」 「面白そうなお仕事ですね」西之園は微笑んだ。  小川は、事件のことを簡単に説明した。西之園は、切り裂き魔の事件については聞いたことがある、と話したが、中野薬局の殺人事件は知らなかった。社会ではそれほど認知されていなかった、といえる。こんな話をしても関心はないのではないか、しかし、助けてもらった以上、事情をある程度は説明するのが礼儀だ、と思いながら話し始めた。ところが、意外にも細かい質問を幾度も受けることになり、説明も充分に詳しくなって、時間がかかってしまった。  また、話しながら、先日の図書館で西之園に会ったときのことを小川は思い出していた。椙田が、西之園のことを知っていたのだ。しかも、彼女に見つからないように隠れていた。そのあとも、彼は本当に困った様子だったのだ。何だろう。椙田と西之園の過去になんらかの因果があることは確かである。それを思い切って尋ねてみようか、と思う。しかし、椙田の真剣さは尋常ではなかったから、自分もこのまま知らない方が、余計なストレスを抱えなくて済む、という予感も働いた。 「あの、よろしかったですか?」小川はきいた。 「え、何がですか?」 「いえ……、お時間を取らせてしまって」 「ああ」西之園は壁の時計を見た。「べつに、かまいませんけれど」 「もう、これで失礼いたします」小川は立ち上がった。「一言お礼を申し上げたかっただけだったのですが」 「どうもご丁寧に」  ドアの方へ歩く。西之園が見送りについてくる。 「本当に、どうもありがとうございました」小川は、深くお辞儀をした。 「また、いつでも遊びにきて下さいね」優しく微笑んで西之園が言った。  自分よりも若いのに、是非見習いたいくらいの上品さだ、と小川は思った。 「失礼いたします」  もう一度視線を交え、軽くお辞儀をしたあと、ドアを閉めた。  通路を歩き、階段を下りて、明るい屋外へ出ていく。  そうか、武道について尋ねるのを忘れていた。自分も探偵の仕事をするならば、空手くらい習った方が良いかもしれないな。そう思いながら、両手を握り、それらしく動かしてみた。  そうだ、なかなか良い考えかも……。  まえに住んでいたところの近くに道場があって、そこの先生とは顔見知りだった。入門を誘われたこともある。一度やってみようか……。  悔しいけれど、真鍋が予言したように、あの日の後遺症で左の肩の後ろのあたりが、今も少し痛い小川だった。 [#ここから5字下げ] 冒頭および作中各章の引用文は『ジーキル博士とハイド氏』(スティーヴンソン著、田中西二郎訳、新潮文庫)によりました。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 底本 講談社 KODANSHA NOVELS  キラレ×キラレ  著者 森《もり》 博嗣《ひろし》  二〇〇七年九月六日  第一刷発行  発行者——野間佐和子  発行所——株式会社講談社 [#地付き]2008年6月1日作成 hj [#改ページ] 置き換え文字 掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89 填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56 蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71